赤牌の歴史から考える新世紀の麻雀
花牌は日本に麻雀が伝わる前から存在するのに対して、赤牌は日本生まれ。1964年の東京五輪が起源とされることが多いですが、実際は「5筒2枚が赤ドラの麻雀牌が『普及』するようになった」出来事で、それ以前から赤ドラは存在していて、5以外を赤にするルールもあったと聞きます。真相は定かではありませんが、それ以前に赤牌が存在したからこそ、五輪にちなんで五筒を赤く塗って常時ドラにするという発想が生まれたと考えるのが自然ではないでしょうか。
最初の東京五輪から来年で60年。今では最初から赤ドラ有りで遊ぶのが当たり前になりましたが、赤ドラ有りが一般的になったのは赤ドラ有りがデフォルトのオンライン麻雀「麻雀格闘倶楽部」(2002年)以降、精々20年程度と思われます。麻雀牌のセットには昔から赤牌がありましたが、何も説明されなければあえて赤牌でない五の牌と取り替えて遊ぼうという発想には至らないものです。
私が本格的に麻雀を遊ぶようになったのも、一般的に赤牌有りの麻雀が浸透し始めた時期だったので、当時は赤牌を採用することに抵抗を覚える人も少なくありませんでした。上記のコラムでも「無闇なインフレルールは嫌」という理由で赤ドラを嫌う打ち手の話が紹介されています(記事公開が1998年、最終更新が2022年末。現在でも更新を続けている麻雀ホームページとしては最古かもしれません)。
しかしインフレルールを嫌うというだけでは、赤ドラはダメなのに裏ドラは採用することに説明が付きません。一発裏ドラに関しては最古のファミコンソフト「麻雀」(1983)ですら採用されているので、「インフレを嫌いがちな人でも既に当たり前のものとして受け入れていたから」というのが最大の理由と思われますが、コラムではもう一つの理由として、「デュプリケーションの破壊」を挙げています。
デュプリケーション。以前の記事を書くまで全く馴染みのない言葉を再び見ることになり驚きましたが、言われてみれば赤牌を採用することはデュプリケーションを破壊するということ。四枚の中に一枚だけ異質のものが混じることに抵抗を覚えるという感覚は分からなくもありません。私もコラム内で登場する赤7枚ルール(三萬三筒三索五萬五筒五索白に一枚ずつ)だと、インフレが過ぎるというよりは、三に赤があるのに七にはないから対称性が取れてないことに抵抗感が生まれそうです。
以前に対称性を保ちつつ赤ドラを増やし、門子や雀頭1つにつき1つまでしか赤が含まれないようにするとともに、赤ドラ以外のドラを廃止することで無闇なインフレを避けることを考えましたが、今から25年前に書かれたコラムで既に「赤アリ裏ナシ」の話が出てくることにまたしても驚かされます。今となっては赤牌はすっかり普及しましたが、5以外の牌を赤にするルールに関しては赤牌が普及する以前から存在するにも関わらず未だに主流になった試しがありません。東京五輪のような全国的に普及する機会が無かったので当然と言えば当然ですが、「五はど真ん中の牌なので、デュプリケーションを破壊しても対称性が保たれるから抵抗感が少ない」ことも理由として挙げられそうです。
「インフレルールは運ゲーを助長するのか?」。以前から何度となく取り上げられて来た問題ですが、今年に入って簡潔かつ丁寧にまとめて下さった方が現れたので御紹介します。結局のところ、「運要素」と「実力要素」が必ずしも相反するものではないので、運要素が無くても実力差が出ないこともあれば、その逆も有り得ます。
このことは、「運要素のない必勝法が判明しているゲーム」を想定すれば容易に理解できることです。しかし麻雀打ち同士だとどうしても麻雀の中で比較しがちなうえに、ルールレベル以上の用語についてはほとんど定義がなされていない(今回の場合は、運、実力、競技性など)ことから、見解を共有することが難しくなっています。
個人的には赤有りの方が、「運要素は強くなるが、インフレによって点数に幅を持たせられるので実力差も出やすくなる」の立場を取りますが、「1枚で1飜(2倍)という得点体系である以上運要素が強くなるのは否めないので、より緩やかに点数に幅を持たせられるならその方がよい」とも考えます。「麻雀」の新世紀を今こそ創造したい…という大それた願望はありませんが、これからしばらくは「馬将」、作者さえ遊んだことのない麻雀のようなゲームを通じて、「麻雀界が他にたどり得た世界線」の話をしてまいりましょう。今後ともよろしくお願いします。
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