『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』2・3巻 彷徨海の魔人 に関する 空の境界関連の感想など
本記事は、2022/8/19にTwitter @nem_shp のふせったーに公開した文章を、改題、修正し再掲したものです。
※ロード・エルメロイⅡ世の冒険2・3巻 彷徨海の魔人 と 空の境界 の内容に触れています。
※文中では、『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』を『事件簿』、『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』を『冒険』と表記しています。
※あくまで私見ですのでTYPE-MOON的に見た場合に的外れな内容でもご容赦頂けると幸いです。
神や神秘との別れ、人間として生きること
魔術師は過去に向かって生きている、と度々Ⅱ世が口にするように、魔術師は神秘の残滓を追って生きる者たちでありますが、神秘に別れを告げたあとの現代を生きる普通の「人間」であり、魔術師からすれば最も遠い者として描かれているのが『冒険』2・3巻のキーマンである両儀(黒桐)幹也であります。
(特に『事件簿』『冒険』の根となるFate側の)TYPE-MOON世界では、神秘は基本的に滅びの路にあるものです。
また、Fateシリーズでは、stay night で語られるアーサー王伝説の終幕のように、神や神秘の時代の終焉、そして人間が創る新しい時代の幕開けといったモチーフが度々登場します。
本作では、幹也の「人間」としての生き方が、神秘の側に生きる者から見れば、ある種特異なものとして描かれています。
行動の意図に裏も表もなく、誰も特別視せず、求めるものには手を差し伸べるような、そんな幹也の生き方。
魔術世界という「特別」に生きるからこそ、こうありたいと願ってしまうようなその姿は、ある意味では神秘と袂を別ち、神秘を必要としない「人間」の強さそのものを代表した姿なのかもしれません。
実は、神や神秘との別れについては空の境界本編でも描かれており、それこそが終章・空の境界の『 』との別れであります。
彼は『 』との問答で、彼女の施しを明確に拒絶します。
盲目となった左目を治すような、いわゆる奇跡を受け取らないことこそが、彼が「人間」である所以なのでしょう。
そして奇跡を求めずに生きられるような彼の在り方は、神秘を追う夜劫やⅡ世には眩しすぎる「毒」であるのです。
しかし、かつて幹也に壊された式といい、今回の夜劫の家といい、コクトーさんはジャパニーズ神秘ブレイカーですね……
Ⅱ世の反応を見て取れば、日本に限った話ではないでしょうが。
「生きているのなら、神さまだって殺してみせる」
これは言わずと知れた両儀式の名台詞でありますが、今回の『冒険』2・3巻で明かされたような日本の神秘と神との関わり(神の破片への接続)を鑑みてこの台詞を振り返ると、また違った意味を帯びるように思います。
この作品世界における最大級の神秘をその身に宿しつつも、それに拠って立つことなく人間としての生をまっとうするのだ、と宣言しているようにも解釈できるなと。
この台詞は、空の境界 第三章 痛覚残留にて、藤乃とブロードブリッジで対峙した際に発されたものです。
生の実感を求めながらも殺人を尊ぶ式と、殺戮を愉しむ藤乃。式は心中では人間として真っ当に生きることを望んでいるからこそ、人の尊厳を秤に掛けない藤乃の行為が許せない。
藤乃に掛けた言葉も、彼女の人間性を問うたものでした。
なお、式は自分の内側にある神秘に依拠する代わりに「とてもあやふやで危なっかしい物だけど、今はそれにすがってゆくしかない」というかなり遠回しな言葉で、「人間」である幹也に寄る辺を求めるのだと、痛覚残留の最後に言っておりますね。
余談ですが、藤乃の能力について橙子さんが「ああゆう選ばれた者だけの力ってのが一番嫌いなの」と言っているあたり、エルメロイⅡ世と共通したところが見て取れて良いなあと思います。
神秘や神様を切り離すこと:両儀式というチートと空の境界の物語
『冒険』の物語は、グレイとエルゴ、2名の身に宿った神と神秘から、彼女らを解放することをメインテーマとして綴られております。
身もふたもない話ではあるのですが、それこそ「神さまだって殺してみせる」の言葉通り、式が『冒険』の話に関わった時点でこの目的は達成可能とみられます。2人の中にある神秘だけを殺すことは、恐らく式には可能なのではないでしょうか。
しかしそれをしてしまうのはあまりにも野暮……であるのもそうですが、式が人間として生きるための葛藤の過程を描いた空の境界の物語のあとにあって、彼女の能力だけを利用するようで筋が通らないなと。
人間を描いた物語の続きには、物語を掻きまわすこと含めて人間にしか成し得ない役割を。だからこそ今回幹也と未那がキーパーソンとして選択されたものと考えています。
『冒険』の物語の大筋を断ち切ってしまえるような式の能力は、TM世界随一のチートであるとしみじみ感じ入るところがありますが。
神の領域にある能力があろうと、彼女が望んだのは結局人間として真っ当に生きることであり、であればこそ人間として生きるための迷いから逃れることはできず。
彼女の持つ特異性こそが、空の境界の物語を普遍的なラブストーリーにしているのかもしれない、と改めて思っていたりもします。
なお、橙子さんは『冒険』の物語で、Ⅱ世と幹也を引き合わせる役割を担いながらも、魔術世界の最奥ともいえる式の存在にはⅡ世に告げておりません(両儀の家について、「魔術をやめた家」とも評しており、少なくとも記載のある範囲ではそう読めます。また、そう言いつつも「一度離れたからこそ、むしろ……」と推理を進めてしまうあたりがⅡ世らしいですが)。
空の境界本編で、橙子さんは目覚めた式にその眼の使い方を教えてやると告げましたが、実際に行った行為は彼女が人間として生きるための導きでした。時が経ってもしみじみとにくいポジションに居るものです。
「生きているなら、神様だってつくってしまえるんだから」
『冒険』2巻にて、未那の発したこの言葉に現れる「神様」とは、いわゆる神秘を宿した神ではありません。
この世界に人間として生きていること。その事実の持つ万能性を示唆した言葉であります。
ある意味では人間の身勝手さの表れではありますが、それこそが神をその身に宿したエルゴを救うものとなります。
凛に拾われ、自分が何者かも失っていたエルゴは、『冒険』の物語を通し自我を獲得してゆきます。
その中でも、未那との対話は自我の形成過程において大きなターニングポイントとなります。目が覚めて「生まれ変わった」と表現をするくらいに。
それまでエルゴは、自分の中に存在する神を軸として生きていました。
そんな彼に、未那は「あなたは如何様にでもなれるのだから、神でなくあなたはあなたとして生きなさい」と示唆します。
この未那の言葉は、エルゴに「自分自身はこうしたい(勝ちたい)」という願望を強烈に自覚させ、新しく彼自身として生きる軸を作るものとなりました。
なお、未那とエルゴの下りは、空の境界 第四章 伽藍の洞における式と橙子さんのやりとりのオマージュとも取れますね。
また、未那が人間が創作した「物語」を好んでおり、生きた書き手を望んでいることも、人間の生の尊重の表れのようにも思えます。
神秘の残る家柄である両儀の娘でありながら、人間の側に傾倒して生きている事実は、式と幹也の人間としての選択を描いた物語の先にあるものとして大きなものではないでしょうか。
織のユメが遺した爪痕
夜劫雪信が目にして狂わされたかつての式と幹也の姿でありますが、高校時代の正月であることを鑑みると、表に出ていた人格は式ではなく織であります(空の境界 第五章 矛盾螺旋参照)。
随分と倒錯した一目惚れになったものだと思いましたが。
いなくなった織が守ったシキのユメが、こんな形で誰かの夢として焼き付いて残っていた事実は、彼が生きた証そのもののようで感じ入るものがあります……。