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HHKB(Happy Hacking Keyboard)を買いました

今回はタイトルの通りのただの日記です。

一応説明すると、HHKB(Happy Hacking Keyboard)とは株式会社PFUから発売されている高級コンパクトキーボードです。
キーを底まで打鍵せずとも文字入力が出来る静電容量無接点方式を採用し、コンパクトなサイズ故に手首位置をほとんど動かさずともタイピングが出来るため、一部のギークに熱く支持され続けています。

後述するように、自分は職場で数か月ほどお下がりを使っていたのですが、自宅のキーボードも壊れかけてしまったので、今回の話は自宅用に新品を買った経緯と導入した感想となります。


貧乏人根性の先に沼

当方は一応エンジニア的な職業なのですが、ガジェット類には一切の興味がなく「固まらずに使える」の最低ラインを満たせば何でもいいと思っている人間です。
壊れずに使えているからと、私用スマホもついに7年使っています。

というのも自分は兎に角掃除・片付けが苦手で「処分の仕方が分からないものは増やしたくない」という思いが強いのです。電化製品なんかはその最もたるもの。(オタクなので本や円盤やグッズは買う……ので永遠に部屋が片付くことがないんですが)

そうはいっても職場が職場であるので、訊いてもいないのに次に買い替えるスマホを薦めてきたりするような、ガジェット類が見境なく好きな人のほうが多く所属しています。
同じチームで働くメンバーが、自分以外は全員HHKBを使っているという癖の強い事態に一時期なっていたりもしました。

……の、ですが。お試しで触ってみることも特になく、HHKBに対しては「こんな小さいキーボードでよくストレス溜まらないなあ」とすら思っていました。今にして思えば多方面に失礼が過ぎる。


時は流れ、職場のHHKB(1世代前のモデル)が偶々1台空きました。
他に手を上げる人もいなかったので「高級品だし自分も一度使ってみるか」という貧乏人根性で使い始め、「なるほどこんなもんか」くらいの感想で過ごしていたのですが……

数か月後、外出先のとある現場。メールを返しつつ首を傾げます。
「なんか、ノートPCのキーピッチが広くてタイピングが疲れる、ような……」
そう、身体は徐々にHHKBに侵食されていたのです……。

私物として買うタイミング問題

折しも、自室にある3000円で買ったキーボードが徐々に調子を悪くしていました。8年程使っているので良く持ったほうではありますが。

とは言え、Enterキーが下がったまま上がって来ず無限に改行されるという事態がしばしば発生してしまうのはエキサイティング。
他のキーの上がり下がりも悪くなっており、タイピング時に手に無駄な力が入ってしまい掌が疲れる状況でもありました。
一応は文字書きを趣味としているので正直ちょっとこの事態はつらい。

「それならいっそのこと、HHKB買っちゃう……?」
脳に響く、天啓のような、悪魔のささやきのような声。

私物として長時間触るものを高級にしてしまうことは、正直怖いと思っています。何も考えずにいたのなら知り得ずにいたのに、ベースの出費がかさんでも、知ってしまったからにはもう戻れないという。
(同じ例として、実家の炊飯器が壊れたのできょうだいが高級炊飯器を買ってきたのですが、高い炊飯器で炊くと古米でも新米の香りが立つんですね。知らなかった……)

そんな訳で「壊れそうだから買う」には勇気が足りず、個人的な目標を決め半年以上かけて達成したので、この度めでたく私物HHKBをお迎えした次第です。買った物はヘッダの写真のとおりHHKB Professional Classic です。

結論はもう想像通りのもので。
「もっと早く買えばよかった……」
職場で使っている前モデルよりもタイピングの感度が高く、無駄な力は一切不要!
キーボードに触れていること自体が幸福で、文章であったりその中身を練ることではなく「文字を打つことそのもののが喜び」という世界が開けたように思います。

開けたというより、次々をティッシュを繰り出す赤子であったり、誰よりも早くバス降車ボタンを押したい幼児のような、自分が世界に置かれたモノと相互作用を起こす根源的な喜びが、HHKBの快適タイピングにより思い起こされた、といった方が正しいです。

インタフェースに導かれて無意識がカタチをもつ

これまで、自分にとってタイピングとは「頭の中で鳴る声や場面を画面に出力すること」でありました。
特に創作をする場合にその傾向が強く、思い付いた台詞が頭の中から離れなくなったために物語を書き始めることも度々ありました。

要するに、書きたい/出力したい、と思ったものが意識されたあとにそれを書く、というプロセスで文章を書いていた訳です。
意識が先で、出力が後。

しかし、新HHKBを自宅に導入して以後は、表現したい対象を意識下に置かなくても、インタフェースに導かれて出力できることがある、ということを実感しています。
出力が先で、書かれた文字を読みその内容を意識する、という順番。


書きたい/出力したい、と思ったものは、元々頭の中にある不定形のモヤつきとして存在しているものであると思います。
「何故あの人物はあのような言動を取ったのか」「あの時抱いていた感情とは果たして何だったのか」という疑問の雲が生まれ、自問を繰り返していく中で要素のピースが集まり、雨として頭の中に落ちてくる。
落ちた雨粒こそが、頭の中で鳴る声や場面であります。

自分は今まで、雨粒に触れて初めて、雨が降った=書きたいことが生まれた、ということを意識していました。
しかし、このプロセスは実は必須のものではなかったのです。

自分にとってのHHKBのように「触っていること自体が幸せ」というインタフェースを用いると、頭の中にある不定形のモヤつき、それを構成する要素が先に身体(指)を動かし、意識下になかった文字が生まれてくることがある。
これこそ「指が勝手に動く」という状況であるのだと思います。
そして、これはとても気持ちが良いのです。


実際のところは、今までと同様に意識下にあるものを書くことのほうが多いのですが、HHKBを触る幸せのまま勢いに乗って打鍵するうち、思っても見なかった文字がぽろりと打ち出されることがあり、合うインタフェースは身体を導いて無意識を引き出すことがあるのかもしれない、とも考えています。
(専門外なので見当違いなたとえですが、箱庭療法っぽくもあります)

以上、「兎に角なんでもいいから新HHKBで文字を打ちたい」という欲望のもとに書いた日記でした。