檸檬哀渦


 そんなにも私はレモンを持っていた。
 一抹の哀しさを胸にして、自分で作った不細工なレモンを後ろ手に隠していた。

 「何を作ったんだい?」

 お父さんはいつもと変わらない薄っすらとした笑みを浮かべているけれど、それが私の心を波立たせていることには気が付かない。

 「何も。完成しなかったの。だから、何も無いよ」

 今日は父の日だった。学校では先月から刺繍の授業があって、父の日に合わせてお父さんのためにプレゼントを作ろう、という目標が掲げられていた。うちの中学校の伝統行事のようなもので、これを楽しみにしている保護者も多いらしい。
 みんなからお父さんへ。お父さんがいない人はお母さんへ。お母さんもいない人はだれか大切な人へ。
 ほんとうは何も作りたくなかったけど、みんなが手を動かしている中で何もしないと先生に怒られてしまうから、とりあえず頭に浮かんだレモンを作った。一枚の布の中央に大きくレモンを刺繍して、それは不格好でお世辞にもいい出来とは言えなかったけれど、家庭科の先生からなんとか点数を貰えるくらいの出来にはなった。
 持ち帰ってお父さんにプレゼントするまでが授業。そう言われたけど、私は「完成しなかった」と嘘をついた。

 「完成しなかったのかい?」

 「うん。じゃ、部屋戻るから」

 お父さんから逃げるように部屋に戻って、隠していた刺繍をゴミ箱に捨てた。
 心が変にドキドキしていて、それを吹き飛ばすために心の中で文句を言ってやった。

 「プレゼント?お父さんに?冗談じゃないよ。なんであげなくちゃいけないのさ。私は何も貰ってないのに!」

 そもそもあんなもの、人に見せれるような出来じゃない。もしレビューサイトがあったら星1しかなくて当たり前のひどい完成度なんだ。それなのに!
 布団もめいっぱい蹴ってやったのに、ドキドキは止まらなかった。
 それから家族で夜ご飯を食べて、お風呂に入って、本を少しだけ読んでから寝ることにした。

 その夜は雨降りが激しかった。雨脚はどんどんと強くなって、どこか遠くで雷が瞬いているのがカーテンの隙間から見えた。
 あまりにも眠れなくて悶々としていると、そのうちにお腹が空いてきた。
 何か冷蔵庫にあったっけ?
 夜食がバレると怒られてしまうかもしれない。そう思って音を立てないよう、静かに廊下を進んだ。そっと、そうっと、静かに、ゆっくりと。 
 不思議なことにリビングには電気がついていた。締め切られていないドアの隙間から明かりが漏れている。
 そっと中を覗いた。
 雷が激しく瞬いて、鼓膜が破れるくらいの轟音がした。
 リビングでお父さんがレモンを手に微笑んでいたのだ。
 「お星さまかなこれは?」なんて、呑気に言ってる。でもこっちはそれどころじゃない。
 私の下手くそなレモン、でもなんで?いつ?どうやって?え?
 疑問が頭を駆け巡っている。あまりのショックに気絶してしまいそうだったけど、なんとか部屋に戻って、ゴミ箱からレモンの刺繍が消えてることを確認して、それから布団に潜って声を出さず音も立てず静かに暴れた。
 レモンの刺繍で喜んでくれたことは、なんだかんだいって嬉しいんだと思う。たぶん。たぶん私は嬉しい、はず。
 でも、それ以上の何かが胸の底にあって、それがどうしても気持ち悪かった。いつも感じてる気持ち悪さが渦になって、それに飲み込まれてしまいそうな。お父さんが怖くなかったら、今すぐあのレモンの刺繍を取り返して窓から投げ捨ててしまいたいくらいの、何かがあった。
 身を起こすと、視界の端で月がいかにも正常な光を放っていた。トパーズ色の澄んだ光だった。
 急にお父さんの言葉が滑稽に思い出された。
 お星さまなんて、バカみたい。レモンなのに。黄色なのと、大体の形しか合ってないじゃん。ほんとは、レモンなのに。私だけが知ってる秘密のレモン。そう思うと何もかもがバカバカしく思えた。
 私の檸檬。
 きれいなまん丸のお月さまが夜空に明るく輝いている。
 それを見ながら、心地悪い苦さと、清涼な優越感を胸に私は笑っていた。
 それは哀しい笑いだったと思う。いつも笑わないから下手くそで醜い笑い方だった。けれど、私の精一杯の、そして心の底からの笑いだった。


 

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