一時間小説「古本」



 竜子は古本屋までの道のりを、涙を流しながら歩いていた。これから長年をともにした一冊の本を売りに行くのだ。けれど、涙の理由は本だけではなかった。この頃の竜子は、こうして理由もなく涙があふれることがあるのだ。そういうときはきまって小石川植物園の夢から覚めた後のことであった。夢の中で竜子は植物園の中をぐるぐるとさまよい続ける。そうして植物園の一角の、或る一本のソメイヨシノの大樹を見たところで夢は覚めるのだ。 日の当たらない暗い路地を、心をざわつかせながら竜子は歩いていた。艶のある黒髪を風に乱しながら、涙に頬を濡らしながら。
 古本屋は路地を幾度か折れ曲がった先にある。まるで、誰にも見つけて欲しくないとでも言うように、ひっそりと佇んでいる。
 店の中には店主しかいない。

 「本を買い取ってほしいんです」

 そう言って本を手渡すと、店主は首元に提げていた眼鏡を掛けて本を検分し始める。

 「五十円になります」

 嗄れ声で呟かれた内容に、竜子は興味がなかった。母の思い出は五十円だけなのか、と思ってそれだけだった。竜子には値段よりも買い取ってもらえることのほうが大事だったし、なによりこういう声の持ち主には敬意を払わなくてはいけないことをよく知っていた。
 五十円を握りしめた手をベージュ色のコートのポケットに入れて帰途につく。五十円の重みはよく分からなかった。
 生まれてからずっと暮らしてきた一軒家はドアを開けても静寂を保っている。もう「おかえり」と言ってくれる人はいないのだ。二人分の靴箱はその半分ほどが空白のままで、そのことにはまだ慣れない。家は一人で住むには広すぎて、そのことが私の心をきゅっと狭くした。コートも脱がず、傷ついた獣のように体を引きずりながらリビングのソファーに身を横たえる。
 二人暮らしを営んできた母が突然の心不全で死んでもう三ヶ月が経つ。これまで竜子は母と姉妹のように寄り添って暮らしていたが、その中でふと、自分がいなければと思うことがあった。もしそうだったら母はもっと自由に人生を謳歌できたのではないか。そんな考えが常に、頭の片隅にあった。苦労の見える後ろ姿や、亡くなったときの安らかな表情を見ると、殊更にそう思ってしまう。
 竜子は突然、ある思いつきをした。それを良い考えではないかもしれなかった。けれど、やらないよりは良いだろう。
 竜子は机の端にぽんと置いてある紐付きのブックカバーを手に取った。以前に一目惚れして衝動買いしたものの、このブックカバーを使うことは不思議となく、これまでの間ずっとホコリを被っていたのだ。
 丁寧に埃を払い、それを母の骨壺に巻きつける。ぎゅっと強く、ぎちりと締める。何歩か離れてから見ると、思ったとおり、白銅色にピンクの差し色が入った骨壺にベージュの装いはよく似合う。上部の黒も良い差し色だ。
 一仕事を終えた竜子は再びソファーに横たわり、そこでふと、またあの本が読みたいと思った。この頃、毎日鞄に入れて持ち歩いている間は読む気が起きなかったのに、こうして手放すと途端に読みたくなってくる。竜子は何かで、このことをよく知っているような気がした。買い直そうかと悩んで、けれど、竜子はもう疲れ切っていた。
 明日また考えよう。今はとにかく眠ろう。そう思った。
 その夜、竜子は夢を見た。
 夢の中で竜子は植物園に立っている。目の前には小川が横たわっていて、それが流れてくる方へ歩くことにした。代わり映えのない景色の中を歩いていくとソメイヨシノの大樹があって、その足元に母が立っている。首に巻かれたベージュの紐のためか母の顔色は青白い。
 竜子はただ、「さようなら」と言った。夢はそこで終わりを迎えた。
 一羽の鳥が翼に嘴を埋めながら葉陰で雨止みを待っているような、そんな、痛ましさとは縁遠い寝姿で竜子は穏やかに眠っている。夜半に降り出した雨音も、住宅街の隙間をぬうように駆ける風の嘶きも、竜子の眠りを脅かすことはできない。竜子は静寂に身を浸していた。
 闇に沈む室内に窓から月明かりが射していて、竜子の頬をぼうと照らしている。涙の跡が淡く浮き上がる。
 泣いているのだ。
 竜子は静かに眠りながら、静かに涙していた。ずっと、ずっと。途切れることなく涙を流し続けた。
 いつしか雨はやみ、闇が深まっていく。もう夜明けが近いのだ。


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