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村上春樹 - 風の歌を聴け(第一章)

今、すごく久しぶりに村上春樹さんの『風の歌を聴け』を読んでいるのだけれど、その第一章の終わり部分の引用。


 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。

 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。

 そして、それが僕だ。


この小説は中学生の頃に、所属していたアマチュア劇団の団長に勧められて(というか演じていた劇の劇中に作品が登場したのだ。シナリオは団長が書いていた)、そうして読んでいたく感銘を受けたことを覚えている。

こうして久しぶりに再読してみても、冒頭部分ですでに胸を鷲掴みにされる。パンチラインの嵐。妙な遠回りはない。本文中の言葉を借りれば、"教訓"の大洪水である。

あまりに有名な書き出しも引用する。


「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」


これは本作が発表された1979年どころか、過去現在未来にわたり"新しい言葉"であり続けるだろう。そういう発見をしてしまう人が稀にいる。

彼らは特別なのだろうか? いや、そうとも限らない。目立ってしまっただけなのだ。あるいは目立ちたがり屋。全存在がかけがえのない特別だと僕は思っている。その中には目立ってしまったり目立ちたがり屋だったりする存在もいる。

ライオンとウサギを比較することなんて僕にはできない。クジラとナメクジも同様だ。同じように、人間同士を比較することも難しい。それぞれがそれぞれにそれぞれの輝きと誇りを持って生きていればそれだけでいいのだと僕は思う。

魂の救済。その実践の8割型はそこにかかっているのではないか。いや、9割?

僕は村上春樹さんのことが好きだ。彼は存在それぞれが持って生まれた魂のかけがえのなさを知っている。僕もそういった人間でありたい。

(2024.4.22)

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