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母に暴言を吐いた日

「一生恨むけん」

「なんで私が正絹ば着れんと?」
中学3年の秋、母に暴言を吐いた。今となっては、なぜあんなにカリカリしたのかとも思うし、同時に、悔しさで涙が滲みもする。

その年は、私が祭りに参加できる年齢期限の最後の年だった。女だからダメだ、どうあがいたって無理だ、と言われて育ったがために「性転換したら受け入れてもらえるか?」と本気で考えていた時期もあった。そんな私に苦笑していた母にだって「悔しい」と散々泣いた15歳の秋があった。

絹への憧れ、絹に見た夢

私が何をゴネてたかというと、祭り装束である。
当時、私は子ども用の木綿のハッピではなく正絹が着たかったのだ。手触りも光沢も質も何もかも違う、汚したら木綿の比じゃなく怒られる、品の良い染めのグラデーションも長年の憧れだった。

それが、その年、本番になって「○○君のハッピがボロすぎて可哀想やったけん正絹は貸した」と言われたのだ。残ったのは、昨年まで着ていたのと同じ木綿の、ちょっとつんつるてんな、いつもの木綿のハッピだった。

母としては、祭りに参加する成年男性があまりにもボロボロの黄ばんだハッピを着るのはみっともないから、○○君とやらの身元保証人の家人として、しゃんとしたものを貸してやろうという気持ちだったのだろう。
私からすると、自費でハッピを誂えていない(=運営側ではない)ポッと出で、来年以降も頼めばきっと参加できるような奴のために、なぜ最初で最後のチャンスを失わなければならないのか、楽しみにしていた分の落胆が大きかった。

そして、冒頭の言葉が出たのである。「もう、一生恨むけん」と、ボロボロ泣きながら、顔が真っ赤になっているのを自覚しながら、一生懸命母を睨みつけた。
「女はこまか(幼い)うちだけでも曳かせてもらえてありがたいと思え」という地元の論調や、制度や、威張りくさっている男たちへの苦々しさを、母にぶつけた。
母は、「そうね、ごめんね」と諦めたように答えた。当日の開催を告げる火矢が音を立てた。

見栄とハッタリの商人魂

母は、その参加者にボロを渡して私に正絹を着せるよりも、商売もしている屋号の評判に関わる方を優先しただけだ。母だって15の頃には泣いた秋があったから、私の気持ちがわからずにやった筈はなかった。

数年を経て、ただの観客になった頃、正絹を着れなかったことよりも八つ当たり的に母に言葉を放ったことの方が身を引き裂きそうに辛い思い出になっていた。
その日着るのが木綿だろうが何だろうが、それまでに参加するための挨拶も手続きも心付けも何もかもを用意してもらい、あとは楽しむだけの気楽な立場に私を置いて、母は「気をつけていってらっしゃい」と背中に火打ち石をかけて送り出してくれていたことをしみじみと思い出したからだ。

ある時、コーヒーを飲んでいる母に、「覚えてる?」と前置きして、「ごめんなさい。一生恨むなんて言ったけど、もう思ってないし、取り消すよ」と言った。母は、カップを置いて「そう、わかった」と、仕方ないなという風に笑った。私がまたボロボロと涙をこぼしていたから、呆れたのかもしれない。

この時、私は泣くつもりは無かった。何なら笑いたかった。しかし、なぜか勝手に涙が出て止まらなかった。
自身の欲に蓋をして、商売人として見栄とハッタリを優先する心を持つには、まだ至れていない若さがあった。

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