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60万円の女

新卒から2年間在籍した小さな出版社を疲労困憊の状態で退職した日は散々だった。
割り当てられた雑務をタイムスケジュール通りに8時間こなした後、総務からの指示である「PCの自分のアカウントを消すこと」に躍起になっていた。
いつまでも席を立てない私に向かって、副部長が「さっさと出て行け!」と怒鳴る。
しかし、支給されていたMacのアカウントはなかなか消えなかった。「あと20分と出ているんです」と訴えたが、「そんなの時間通りに消える訳無いだろ!」とさらに怒らせただけだった。

後に、総務が想定していたのはWindowsのPCの話だと判明した。Macだとアカウントの削除がややこしく、素人ならばそれなりに時間を設けておく必要があったらしい。
小規模とはいえ仮にも出版社なので、Adobeソフトもそれなりに入っていたが、「あらゆるアカウントからお前の情報を消せ」と命令された通りにライセンス情報まで削除していたため、後でシリアル番号の再入力に難儀したらしい。
結局どれほど居残ったかは覚えていないが、最後の最後に、跡を濁して私は立ち去った。

会社側とはその4ヶ月前から、話し合い、もとい退職への追い込みがかけられていた。
正社員からアルバイトに降格すれば在籍させてやってもいい、と言う総務と部長に対して、契約形態が変わると転職活動に影響が出る、と返すと「確かに」とふたりは黙った。そして、私を3月末まで正社員でいさせる交換条件として、転職活動を義務付けた。


転職エージェントとの話もまとまりつつあった2月に、退職届を出した。ネットで拾った例文をそのまま書いた。編集者としての恥も矜持も無い。
会社のお荷物から封書を貰った総務は大喜びしていた。

会社と毛色が合わなかったこと、定時の1時間半前から出勤して「社員の皆様に朝の挨拶をせよ」と言われたこと、病気になった旨を他の社員の目の前で大声で馬鹿にされたこと、などエピソードは尽きないが、エージェントに聞かれるまま伝えると、彼は何かシートに書き留めながら「辞めて正解ですよ」と言った。
「履歴書もキレイですし」という彼のセリフは独特な褒め言葉として受け取った。あの「アルバイトになるかすぐに辞めるか」のやり取りは意味があったらしい。


転職先は、東京の真ん中にオフィスがある商社だった。
20代前半、大卒、契約社員として入社、前社在籍中に病気にかかった旨を了承の上で話はまとまった。

入社は6月だった。雨が降っていようが朝から暑かろうが、駅から直結のビルを通って通えば何も問題は無い。
少しだけ階数が高いオフィスで、私は事務方の仕事をもらった。全国の支社から送られてくる領収書を社内用のフォーマットに変換しつつ、金額の推移などをデータで確認する。
毎月毎月、だいたい同じ額の領収書が届く。たまに跳ね上がっていると、正社員に渡して問い合わせの指示が出る。
時々、新規の取引先からも来るので、その時はシステムに会社情報を手入力する。

例の領収書も、そういう新規の取引先だった。
「領収書 ○○○○ ¥600,000」
他と違ったのは、通常は品名が入る位置に、私の氏名が書かれていた点だ。
送り元は転職エージェントの企業だった。数量の欄が無いのが人材会社ならではだなと思いながら眺めた。
確かに、私は「数量 2」にはなれない。

領収書を、ブラインドの隙間から差し込む西日が強く照らしていた。「私は60万円かぁ」と、私はひとりで笑った。相場は知らないが、きっと安い方だろう。私の貯金で私が買える。

ただ、「あんたに価値なんか無い、できる仕事なんて無い」と事あるごとに言っていた前職の部長の顔に押し付けてやりたいとは思った。
「安いだろ!でも、買ってくれた会社があったんだよ!」


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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