苦い経験
先日、文章を学んでいる学校で、半期に一度の講評会があった。
昨年度の私は審査の先生方全員から票が入り、大きな自信を得たのだが、今年度は苦い挫折を味わった。
講評会に出す作品の締め切り一ヶ月前、私にとって問題が起きた。
通常授業を担当する先生から、プロットが長すぎると、本文でフラッシュバックする回数も多いと、半分ほどを書いた段階で指摘された。
プロットから書き直しした方がいいかな? 多いと指摘されたフラッシュを、過去の場面としてまとめる方がいいかなと? 課題多き授業を終えた後のことだった。
受講生の一人が、既に先生から言われたことを、わざわざ乱暴な言葉で私を否定してきた。
普段なら乱暴な言葉遣いという部分だけでも反論するところだが、先生からの指摘されたことという部分もあり、言葉が出なかった。
周りの人が私をフォローしてくれたが、糸を引く様なダメージを受けた。
結果、しばらく書けなくなってしまったのである。
もう出せないかなと思ったが、〆切二週間前から、意地でプロットから本文まで全部書き直しして提出。
しかし、審査員の先生方からの評価は悪かった。
指摘箇所やバランスの悪いところの指摘があった。更に主人公が好意を持っている相手からの視点をもっと描いてみては? とのアドヴァイス。
また別の先生からは、自分と同じ性別や主人公に思い入れが強いと、清廉潔白過ぎて、変化や成長の殆ど無い人物になってしまうことがあるとの指摘。
この指摘で自分のダメさを思い知る。
昨年度はいずれも自分と違う性別の主人公にしていた。それ故に、フィクションで書きながら、本当に存在しているかのような人として様々な一面が見えるように書いた。
出来ていたはずのことが出来ていない。冷静さを欠いたものになっていたなと思う。
自信を失ってしまったが、このまま辞めるのも悔しい。
そしてまた、物語を作ることにおいて、主人公の挫折は変化・成長へのきっかけである。
こういう物語作りの基礎的な考えで言うと、私はここで腐って辞めてはいけない気がする。
適切な指摘や批判は必要で、ブラッシュアップして書いてゆくのは当然と思う。
私が書けなくなったのは受講生の心無い言葉を、授業の後だったので、先生の言葉かのように受け取っていたのかも知れない。
今思えば、あの人は先生のことを代弁するていで、言いたい放題言い、私へマウントしたいという歪んだ心もあったのだと思う。
表現活動をする中で、同じように活動する人と出会うことがある。
今回は学校だけど、人からの紹介であったり、自分から近づいてくる人であったり。
そしてその中に足を引っ張ろうとしてくる人が紛れてくることが何度かあった。
自分がされたこともあれば、仲良くしてた作家を目指す仲間が嫌な目にあうことも。
やっている方は、被害者を装ってくることもあって見分けが難しい。
基本的に人には優しくしたい。
ただあるとき、「そうやって隙があるからつけ込まれるのだ」と、友人から言われたことがある。
友人のその言葉すら、「私に隙があるから言われているのでは?」と思う。
強い心を持ちたい。