思い出の猫
我が家にやって来た2匹の子猫
私の家では私が子供の頃から多くの猫を飼ってきた。
その中でも一番思い出に残っているのは私が小学校低学年の頃に飼っていた「タマ」というメス猫だ。
タマは私の名付け親のお婆さんの家からもらった猫だった。
身体の色は顔の鼻から上と背中、前後の足と尻尾が黒、口元から喉、お腹が白の「黒白」だった。
タマはもう一匹の三毛猫、「ミーコ」と2匹で我が家にやって来た。
2匹の猫の実家、私の名付け親のお婆さんは熱心な日蓮宗(創価学会ではなく身延山久遠寺の系統)の信者で、自分で「お題目講」(日蓮宗の信者の集まり、宗派のお寺に参拝旅行等を行うグループ)を主催していて、私の祖母がそのお婆さんの一番弟子の様な関係だった。
そしてその名付け親さんの家にはいつも猫が飼われていて、その猫が仔猫を生む度に、お題目講で集まった信者さんの家に里親として仔猫を譲渡していた。
タマもミーコもそんな経緯で我が家にやって来た猫だった。
2匹のメス猫は同時期に生まれた姉妹だけど性格は全然違っていた。
ミーコは人懐っこいがおっとりしていて、でも「鈍臭い」感じの猫だった。
それに対してタマは気性が荒くて警戒心が強く、俊敏な猫だった。
2匹の猫がやってきた当時、私の家は交通量が多くなってきた県道沿いにあった。
たぶん大正時代に築造された当時の私の実家は7人家族と猫二匹で住むには狭い造りだった。
昭和40年代後半から50年代前半にかけて様々なインフラ整備がされていた時代、実家の敷地に隣接する県道はたくさんのトラックが行き交っていた。
そんな環境でミーコは半年足らずの間に車に撥ねられて死んだ。
でも残ったタマは持ち前の警戒心の強さで県道を走る車を躱して生き延びた。
家の中では戸棚にしまったオカズを狙ってイタズラをよくした。
だから小学校から帰宅した後の私は、タマから戸棚を守る見張番を日課にしていた程だった。
戸棚の見張番
タマは本当に賢い猫だった。タマが家に来るまでは私は学校から帰宅するとテレビの電源を入れて夕方の子供向け番組の再放送を見ることをある種の日課にしていた。
当時の午後4時頃からは「ジャイアントロボ」や初代・2代目の「仮面ライダー」、「キカイダー」等の特撮物や、「デビルマン」、「マジンガーZ」、「ゲッターロボ」、「新造人間キャシャーン」等の『テレビ漫画』等の子供向け番組がたくさん再放送されていた。
男の子向けの物ばかりではなく「魔法使いサリーちゃん」、「魔法のマコちゃん」「秘密のアッコちゃん」等の女の子向けの物もたくさん再放送があった。
小学校2年生の頃の私は夕方の子供向け番組の再放送を視ながら、1年生の時にはめったに出されなかった宿題をやっていた。そんな頃にタマは私の家にやって来た のだった。
我が家にやって来てすぐの頃、タマとミーコは子猫の小回りの良さを発揮して、私が気付かない内に戸棚の中に潜り込み保管していたオカズの焼き魚を食べていた。
我が家では海無し県ゆえか、日頃から「アジの開き」を焼いてよく食べていた。
特に隣の静岡県沼津市辺で作られる干物は、幼い頃からの私の好物の一つでもある。
そんな家族の(いや私の?)好物を、事もあろうに我が家に貰われて来て間もない子猫達に横取りされるのは、人間のプライドに懸けて許すことができなかった。
なので母親からの「ご指名」もあり、私が戸棚の扉を子猫達、特にタマから守る見張番をやることになった。
先にも書いたように古い時代に築造された実家には内壁備え付けの戸棚があり、その扉は木製の引き戸であった。
賢いタマは我が家に来て早々に、食事の度に家族がこの引き戸を開けて中からオカズを取り出すことを覚えてしまい、また器用に前足を使って引き戸を開けることも覚えてしまった。
いつも姉貴肌のタマを追い掛けていたミーコは、タマが戸棚を開けると「私も〜♪」と言わんばかりに一緒に戸棚に入り、タマのおコボレを御馳走になっていた。
二匹は本当の姉妹だったけど、いつもタマがリード役でミーコが妹役(子分役)だった。
本当の姉と妹はどうだったのか私は知らないが、子供の頃の私から見たらそんな風に見えていた。
その二匹の関係が突然に終わったのは、彼女たちが我が家に来て半年も経過しない頃だったと記憶している。
姉妹猫のお別れ
母親が言うには、私が学校に行っている間に二匹は県道の向こう側に冒険に行こうとしていたらしい。
そしてリーダータマが県道を渡り終え続いてミーコが県道を渡ろうとした時に車に撥ねられたとのことだった。
私が学校から帰宅すると母親が既に後処理を済ませていて、私は同じ日の朝以降、二度とミーコに合うことはできなくなった。
ミーコが居なくなってからタマのお転婆ぶりは益々勢いが増した。
家に来てから1年くらい経つ頃は、屋根裏で運動会をしていたネズミを退治する為に自主的に天井上に上がり、30分も経たない間に2匹ほどネズミを咥えて1階に降りてくることが何回もあった。そしてこの頃から私との接し方も変わってきた。
理由はよく判らないが、戸棚の扉をめぐって激しく戦っていた私に対して甘える様になってきたのだ。
これはあくまでも私の推測ではあるが、猫なりに私のことを認めてくれた様であった。
私は自分で言うのも何だが「融通の利かない子供」だった。これは53歳に成ろうとしている今も妻に指摘され、夫婦喧嘩の際には、「貴方は本当に融通が利かない性格ね」と怒られることがよくある。
戸棚の見張番をしていた時、戸棚に忍び込もうとしているタマを見付けると、私は本気でタマと戦った。そしてタマも本気で反撃してきた。だから当時の私の腕には猫に引掻かれたミミズ腫れの跡が何箇所も付いていた。
小学生の私とタマの戸棚をめぐる戦いは約1年間の間、我が家で繰り広げられた。結果、私とタマはお互いの性格を理解し合い、人間と猫の種を超えた『友情』のような気持ちがお互いの中に芽生えた。少なくても私はそう感じていた。
その『友情』を証明する様な出来事が起きたのは、タマが家に来た翌年の晩秋だったと記憶している。
初めての妊娠、出産、そして仔猫のお披露目
ある晩秋の日の朝、たしか午前6時頃だったと思うが、私はいつもとは違う状況で目覚めた。
すでに母親が朝食の準備で台所作業を開始していたが、父親も妹も、祖父母も曾祖母まだ起きていなかった。
私もまだ布団の中に居たのだが、この日の朝は私の枕元で「ミャー、ミャー」と数匹の仔猫の鳴き声が響いていた。私は仔猫たちの鳴き声で目覚めたのだった。
最初は「なんだ?この仔猫たちは、、、?」と状況が飲み込めないでいたが、タマが4匹目の仔猫を私の枕元まで連れてきて短く「にゃん!」と鳴いたとき、私はタマの気持ちを察することができた。
実はタマはこの朝の出来事の少し前から妊娠していたのだった。この年の秋、猫達の繁殖期にタマは生まれて初めて妊娠したらしい。
最初にタマの変化に気づいたのは私の母親だった。
私と妹の2人の子供を育てている最中の母親は、家族の中でこの時のタマの立場に最も近い状況の人間であった。なので母親はタマの体型や気持ちの変化を一番敏感に感じていたのだった。
その母親が私と妹に
「どうもタマはお腹に赤ちゃんがいるみたいだよ」
と言い、その言葉に単純に喜ぶ私達兄妹に対して、
「でもお腹に赤ちゃんがいる時は気が立っていることが多いから、あまり触っちゃダメだよ」
そして
「こういう時は家に帰ってくることも少なくなるけど、タマがご飯を食べてても何もしないで見守ってやれし(見守ってあげな)。」
と甲州弁を使って私達を諭した。
母親の言った通り、妊娠中のタマは数日の間家を留守にしては食事だけを食べに戻り、食べたらすぐにどこかに行ってしまう生活を数週間の間続けた。
私と妹は母親に諭されたことを意識しながら食事に戻ってきたタマを見守った。
本当はタマを抱き上げて一緒に布団に入りたいと思っていたが、母親が言った通りにタマは気が立っていたので、近づく私の気配を感じると、「フー、シャー!!」と私を威嚇した。だから私はタマを見守るしかできなかった。
そんなタマのお腹が一段と大きくなった様に見えた頃、タマは食事にも戻らない様になった。タマが家に戻らなくなって数週間が過ぎた頃、家族は
「もしかしたらネズミ用の毒でも食べて死んじゃったズラか(死んじゃったのかもね)?」
と話していた。
そんな話をしていた時にあの朝の出来事は起きた。
なぜタマは家族が気付き難い朝の時間帯に私の枕元に仔猫を連れて来たのだろう。
家族ではこの出来事に対する疑問を解決できなかった様であった。しかしこの時の私はタマの気持ちを直感できた。
「タマ、ぼくを親友と認めてくれてありがとう」
そして、
「家族の中で一番正面からタマにぶつかっていたから、ぼくに最初に子供を見せに来てくれたんだね」
と話しかけてタマの頭と喉をなでた。
タマの4匹の仔猫は体の色が真っ白い仔猫が2匹、三毛猫が1匹、タマと同じ様に鼻先から背中、尻尾にかけて黒、口元から喉、お腹が白い黒白の子が1匹いた。
4匹の内、三毛猫の1匹は少し首が曲がってしまっていたが、他の3匹はとても元気だった。
タマは4匹の子供達を私に見せ、私が1匹づつ抱き上げて背中をなでて降ろすと、安心したように子供達に母乳をあげ始めた。
仔猫達の「ミャーミャー」という鳴き声に母親が気づいて寝室に戻ってきたのは、私が目覚めてから10分ほど経過した頃だった。
母親はタマと仔猫達の様子を見て驚き、そしてすぐに幸せそうな笑顔になった。
その母親の笑顔を見て私もスゴく幸せな気持ちになったのを、今もお覚えている。
4匹の仔猫の内、三毛猫以外の3匹は次々と里親が見つかり、我が家を巣立っていった。残念ながら首が曲がった三毛猫はそのままの状態で生きていくことはできないと判断され、大人たちが畑に連れていき処分されてしまったようだった。
里親に引き取られた3匹の内、白いメス猫は私の家と同じ地区に住んでいる従兄弟の家に貰われた。
この子は左右の目の色が違う「オッドアイ」で薄い青色とエメラルドグリーンの目をしていた。そしてたぶんこの子がこの時に生まれた仔猫の中で一番長生きした。
「ぷく」と名付けられたオッドアイの白猫は、従兄弟の家で大切にそだてられ16年の長寿猫になった。
「ぷく」を一番可愛いがっていた私よりも5歳年上の従兄弟の姉さんが、「ぷく」を看取った時に大泣きしていたのを今も覚えている。
実家の引っ越し、タマとの突然の別れ
タマが初めて子供を生んで1年が過ぎようとしていた頃、私の父親はそれまで畑で使っていた土地に新しい家を建て始めた。
この頃の我が家は曾祖母も含めて7人家族、家の敷地に隣接した県道は車の通りが激しくなるばかりで、足の運びが弱くなった曾祖母や子供だった私と妹が交通事故に遭う危険を回避することと、敷地が狭く何をするにも不便だったことから、父親が一大決心したのだった。
私も妹も単純に新しい家で自分たちの部屋ができることに気持ちが高揚していた。
そんな頃にタマとの突然の別れがやって来た。
それがいつの季節だったのか私は明確に覚えていない。でも母親が祖母の和裁仕立て屋の作業を手伝っていたので、たぶん農閑期の季節だったのだろう。
ある日、私が学校から帰宅すると母親が涙を流した後の顔で、
「タマがダンプカーに撥ねられて死んだ」
と言った。
これを聞いた私は最初、悪い冗談だと思った。ナゼなら先述したようにタマは賢くて慎重な猫だった。だから県道を渡る時も人間の私達から見てもかなり慎重にタイミングを図って横断していた。そのタマが県道を渡っていてダンプカーに撥ねられるなんて、この頃の私には有り得ないことだった。
だが現実は残酷だった。母親の言った通りタマは死んでしまった。とても呆気なく、簡単にダンプカーに撥ねられて死んでしまった。
タマが死んでから半年後、私は人生で初めての引っ越しを体験した。
新しい家は平屋建てだったが、以前からの両親との約束の通りに私と妹は共同ではあるが専用の部屋が与えられた。
タマが生きていれば恐らく私と妹と一緒に遊んだであろう子ども部屋は、削り出した木材のの香りが漂っていたが、吹き抜ける風が少し虚しく感じる部屋だった。
タマが亡くなって1年後、妹が友だちと遊んでいた時に川を流れる木箱の中から仔猫の鳴き声が聞こえると家にいた母親を連れて行った。
そして母親と妹たちは我が家に新しい家族を招き入れたのだった。
その後私は高校を卒業して専門学校の学生寮に入るまでの間、この実家で過ごした。
この間、数匹の猫が我が家の家族に加わっては去って行った。
どの猫も私や妹になつき、冬の夜などは同じ布団で寝ることも度々あったが、私や妹を「親友」として扱う猫はいなかった。
終わり、猫の親友に思うこと
タマと暮らした2年ほどの時間は、もうすぐ53歳になる私の人生からするとほんの一瞬の出来事だった。
でもその一瞬の光があまりにも眩しかったために、40年以上が経過しても私の中から消えない思い出になった。
大人になって、自分の息子たちも経済的に独立しつつある状況でタマとの思い出を振り返ると、人間と猫の違いはあるが本気でぶつかり合って、本気で遊んだら猫も人間を親友と認めることがある、だからこそ動物に対しては人間以上に手を抜いた付き合いをしてはいけないと思うのであった。
〜おわり〜
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