にわか雨の話
にわかという言葉が
サッカーワールドカップで
浅く盛り上がるファンを嘲笑する
ニュアンスでSNSを中心に多く用いられる
ようになったと記憶しています。
にわか
漢字で書くと「俄」だそうです。
江戸時代から明治時代にかけて宴席や路上などで行われた即興の芝居。
俄狂言(にわかきょうげん)の略で「俄」素人が演じたことからこう呼ばれる。あるいは一説に、路上で突然始まり衆目を集めたため、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったと伝えられる。(引用:Wikipedia)
とのことで調べてみると面白いですね。
確かに「にわか雨」って言葉もある。
「一時的な」「短時間の」という意味合いは
割と身近にあったんですね。
オタク文化の発達とその文化の許容は
多様性を訴える現代の雰囲気が
広がっていく中で浸透してきたと
思います。
私の中学生時代が
その境目だったかもしれません。
受け入れられ始めた空気がありました。
ある1つの分野に於いて
圧倒的な知識量があること。
これを「オタク」だと
私は認知しています。
そして最近、オタク文化迎合から
さらに進んだ結果
圧倒的な知識、即ち
自分の好きなものを語る上で
理由がなくてはいけない。みたいな
圧力のようなものを感じる気がします。
「私が好きだから」という理由では弱いのか
誰かが自分の好きを肯定する瞬間
解説、評価するシーンを切り取って
自慢げに発信するパターンをよく目にします。
もちろん私自身にも心当たりがあります。
そういったシーンを目にするたびに
自分の発信を疑うたびに
自分が好きなものを語る無意味さを感じて
頭が曇ったりするのです。
にわかを排除する雰囲気から
発信する上での裏付けが強要されていないか。
遂には自分が好きな理由を言語化するのを
辞めて、誰かが綺麗に整えた表現を
トレースする作業で満足していないか。
そんなことを考えて
このnoteを書いています。
このモヤモヤを消そうとするなら
やっぱりSNSから離れることが
多分最適解でしょうか。
アナログなアウトプットで
自己満足を重ねていくことが平和的
なのかもしれません
簡単に手放せないのが現実ですが。
アニメPSYCHO-PASSの
シビュラシステムの世界を
思い出します。
理性とシステムの狭間というかなんというか。
もういっそ
にわかでいいんじゃないか。
むしろにわかな状態こそ
気ままで自然なんじゃないかと。
こんな感情の一時的な雨に
今、私は襲われているのです。