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『ないものねだるな』阿川佐和子著の感想

本書は婦人公論に連載されたエッセイで2019年9月から2021年7月に掲載されたもの。よって感染症パンデミック真っただ中に書かれたため、自由に行動できない不自由さや晴れて解放された暁には、何をしたいかなどが書かれている。

タイトルの「ないものねだるな」は、背が低い阿川さんが「もっと背が高かったらいいのに」と思うが、今から長身になれないので、背の低いことで得をしたことを書いている。

私自身は身長167センチで、昔からデカイ女と言われ、Mサイズの155センチの人がうらやましかった。自分にないものほど、のどから手が出るくらいほしいのかもしれない。

私は、かなり阿川佐和子さんが好きで、調布に住んでいた頃図書館にあったエッセイはすべて読んでしまった。当時、調布は図書館の充実に力を入れていてとてもありがたかった。

だから阿川さんが家族を題材に書くと、私は阿川さんの家族を親戚のように身近に感じていた。一番多く書かれたのは、作家の父だが、連載時には亡くなっていた。

そして、母は認知症ですでに娘が誰かわからなくなっていた。デイサービスの迎えに行って「ウチに帰るの」と言うと、母は「ウチはここ」と施設が自分の住む場所と思い込んでいた。

切ない、失われた記憶はよみがえられない。「さわこ」という名前さえ憶えていない母に『どうやら母にとっては、娘の存在自体が他人事になったらしい。その境地に至るもまたよしとするか。いずれ、我が身世にふるながめせしまに。』と書いている。

どこかで見たことがある表現だが、思い出せず検索してみたら百人一首の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」の引用だった。現代語訳は「花の色は色あせてしまったことよ、むなしく私がこの世で月日を過ごして物思いにふけるうちに、そして長雨が降り続く間に。」

2017年に63歳で結婚した阿川さんは、2015年に父が亡くなり、義母、義父、母と次々にお見送りをされた。一緒に介護してくれたパートナーや兄弟の協力を読むと、助けてくれる人がいるといいなあと思う。

私には、パートナーも兄弟もいない。しかし、ないものを数えても仕方ない。障害児の子育てをしている方が、子供のできないことを数えてしまうと相談したら「できることを数えましょう。できないことを数える時は同じ数だけできることを探しましょう。」という回答をしていて、介護も同じだと思った。

あれもできない、これもできないと文句を言うより、こぼしても食事が一人でできる、よごしても風呂が一人で入れるとマイナスとプラスを同時に考えればいいのかもしれない。

物事は自分の視点からずっと見ているとよくない。反対側や斜めとか視点を変えて見ると物の見え方が変わる。私が本を読んだり、他の方のnoteを読むのは、視点の変化を面白く思うからなのだろう。

自分ひとりでは、見逃したり気付かない何かを知ることは、人生を豊かにしてくれると思う。