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#06【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮

■前回のあらすじ■

​憤(いきどお)って出て行ってしまった蓮華(れんげ)を追いかけた蒲公英(ほくよう)は、独り夜の廊下に佇(たたず)んでいる蓮華を見つける。

​改めて二人だけで話してみると、蓮華は心素直に会話をし、時に蒲公英の話しを熱心に聞いて、自身の意見を言ってくれた。

​蓮華は蒲公英が元々自らを蔑(ないがし)ろにする性格を知っていて、護衛と言う役職についている蒲公英が、きっと人の為に無茶をするのだろうと、心配していたようだった。

​旧知の仲である蓮華との会話に、蒲公英も安心をするが、また、蓮華が佐保姫のように預言をし始める。
​その時また、彼女の口から「犬」という言葉が出た。

​預言の不可解さにもっと深く尋ねようとした時、折り悪く、1人の女が庭を走り抜けようとした。
​蒲公英はその女が「精霊」だと、匂いで気が付くが、蓮華には分からなかった。

​こんな時間に堂々と、しかも、精霊が人の前に姿を現すなど希少な事だったので、驚きながらも、客の正規の入り口から入らない事に、蒲公英は彼女に一つ釘を指す言葉を言う。

​精霊が行った方角は、安寧の庵がある方角であった。
​また、蓮華も、蒲公英が部屋に帰るのを見届けた後、意味深な言葉を吐いたのだった。

​続きまして天の章、第五話。
​お楽しみください。


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​#06【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮



​「星」と呼ばれる安寧の部屋というのは、この社の中央にあり、池の中にポツリと建っていた。

​部屋と言っても結構な広さがある星は、竹と柵に覆われて外からは見えない。


​唯一見えるのは、客間当たりの垣根の上から顔を出す、松や梅の上部のみだ。

​昼間は流水があり、鹿威(ししおど)しが静寂を破る庵だが、今は無音の闇に包まれていた。


​星に行くには、多少の白い石の階段を降り、平らな庭の生垣の間の道に出た後、池を渡らないといけない。​よって、修行女達は星に踏み込んだ事が無かった。



​フッと、暗闇の庭に降り立つ者がいた。


​闇に染まらず、その体は淡い緑の光を蛍のように散らし移動するその者は、音も無く暫く立ちすくんでいた。

​その様子は、歩くたびに頭上で忙しなく波を打っていた打掛(うちかけ)が萎えるのを待っているかのようだった。


​打掛が腰にもう少しで完全に落ちようという時、女は再び歩き出した。
​先ほどのように、女はもう挙動不審な態度など見せずに、堂々と水に足を乗せ、​そして、やはり体重を感じない体運びで水面を歩いていく。


​女が星の門を潜っても、動いているのは波紋だけだった。


​椿の咲く門を抜けると、また建物に入るための門がある。
​寺の玄関と同じ造りのここを女は上がり、頭の打掛を取り払って素早く畳んだ。


​長い廊下だ。


​柱と御簾(みす)が続く左側は広い板の間になっており、正面中央には龍と女神の金の像が祀(まつ)られ、鎮座している。

​右側の障子から月灯りが漏れ、その像の一部がキラキラと光り輝いていた。
​女は小さくため息を吐いた。


​女はこの建物が、まるで自分の庭かのように歩き、迷いなく安寧の寝室に続く戸の前に立った。


​小さな切戸(きりど)程度の潜らないと入れない入口なのだが、女は息を整える。​そして、そっと頭を伏せた。


​戸の両面の壁には、ここを護る札が貼られていて、不法侵入者と見なされると狛犬が首を食いちぎらんとばかりに襲い掛かってくる。

​らしいのだが、女にそのような事はなかった。
​とは言え、何度潜っても心底穏やかではいられない行事だ。


​戸を潜ると、星の安寧の庵の庭に出る。
​そこには飛び石があり、庵へと続いている。

​そこは、平民の家のように質素な建物だった。
​庵の庭には枯山水の白い石が造形に沿って、深い影を落としている。
​庭木も深い闇を湛えていた。
​その闇を深める光を辿ると、庵の一室の不安定な炎の灯りから伸びていた。



​女は歩きながら着物を脱ぎだした。



​彼女は脱いだ小袖の下にも着物を着ており、その姿は白い着物に絞り袴。
​上から羽織っているだけの白い着物は、両腰の脇に切れ込みの入っている不思議な作りをしていた。


​女はその着物の腰に、歩きながら赤い紐を結んだ。
​大股に歩くたびにその紐が炎のように柔らかく動いた。



​その様子は女ではなく「彼」と呼んだ方が良いだろう。



​黒いぺったりとした靴を履き、真っ白な髪を片方の耳の下で括り、
​颯爽と庵に向かうと、影差す瞳を伏せ、彼は庵の前で跪(ひざまず)いた。



​「蘿(すず)か」


​「は」



​「入れ」と、言われて、蘿と呼ばれた男は、庵の縁側に身を移し、
​灯りが揺らめく障子の前で一度膝を付き、一礼すると、そっと障子を開けた。


​ぼんやりとした灯りが、男の顔の凹凸の影を揺らす。




​「失礼致します」


​「ご苦労であったな、蘿蔔(すずしろ)」


​「滅相もございません」




​掠れた低い声で蘿蔔はそう答えた。
​表情は全く無く、色付いた唇だけが動き、そう言葉を紡ぎ出すだけだった。



​「…変わったな、蘿蔔」



​唐突に安寧は背中で蘿蔔にそう言った。
​未だに蘿蔔の顔を見ずに、小さな机の上で書き物をしていた。


​「特にこれと言って、私に変わりはございませんが…」



​不思議そうに呟く蘿蔔。
​彼も彼で未だに顔を上げない。

​風が障子に当たり、小さく音を立てた。



​「…蒲公英に会ったか。蘿よ」



​その瞬間、男は顔を上げた。

​驚愕した顔には初めて、光が差し込む見開いた瞳があった。
​男は、この目の前の神に隠し事など出来ないと分かっていながらも、動揺をし、目を泳がせた。



​「別に良い。会話は出来なかったのであろう?」


​「偶然…。道すがら、会いまして…。草とは見破られましたが、それのみでした」



​うん。と、安寧は頷いた。


​「まあ、お前も分を弁えているであろうから、今は何も言うまい」


​その言葉に蘿蔔は少なからずヒヤリとしたものを感じたが、おくびにも出さずに静かに控えていた。


​「して?」


​「は。天変地異はいよいよ活発化しており、母子山周辺の磁場が乱れております。四季の姫以下も、これが何を意味するかは分かっていないようです。…一部を除いて」



​すると安寧は「くすっ…」と笑った。それに蘿蔔(すずしろ)はドキリとする。

​普段余り笑わない安寧が思わず笑う理由が、蘿蔔には分からなかった。


​「安寧様?」

​「いや。……蓮華であろう」



​蘿蔔には蓮華という人物が分からなかったが、恐らく蒲公英と話していた少女であろうと予測した。


​何故なら、自分が一部と言ったのは、その少女の預言を垣間聞いて、彼女が先を見て預言していると思ったので「一部」と濁して言った。
​蒲公英と仲が良い少女が、悲しい結末になって欲しくないと思っていたのに、意外な反応であった。



​「あの子は聡く、勘が良い。あの子だけなら問題ない」


​「…」


​「何が疑問だ?蘿蔔」


​当然の如く心を読まれている事について蘿蔔は覚悟はしていたが、戸惑いは隠せなかった。


​「…いえ、私は貴女の御心のままに動くのみですので」


​「賢明な答えだ。蘿蔔。問うても何もならない。知ってもどうにもならない」



​安寧は持っていた筆を置いた。


​「あるからあり、ないからないのだ」




​蘿蔔が顔を上げるのと同時に、安寧は振り返った。


​「そろそろ私も動こうと思う。準備は整った。謡谷(うただに)に拠点を移し、五天布(ごてんふ)を招集する」



​「四方の護神(もりがみ)を…。しかし、お力を取り戻すには神器が必要なのでは…」


​安寧は顔色も変えず、言う。


​「もう揃うておる。心を擡(もた)げる宝珠は我が首に。香をも映す鏡は春草の一人、薺(なずな)が。そして、狭間の太刀は、蒲公英が所持している」


​「…っ」



​その反応を見て、安寧は小さく笑った。


​「何。持ち主の手に渡しても構うまいて。蒲公英自身、私の計画に関わっているのだ。これからもあの子はあれを以てして、私に仕えるのだからな」


​「恐れながら…。あの子はまだ十と四。武力なればこの蘿蔔にお任せ頂けたら…」



​白い前髪の合間から、精霊特有の綺羅な瞳が見え、そこには強い意志と焦りが見えた。

​しかし、蘿蔔の言葉に、安寧はこれまでの能面のような顔を一変。
​眉を吊り上げた。


​「己惚れるな蘿蔔。…蒲公英の力はお前の力などと、比べるべくも無い。あれは、生まれながらにして神なのだ」



​そこまで張り上げる声ではないのに、何故こうも体が震えるのだろうか?
​冷汗が伝い、その重圧に心臓が潰れそうだ。部屋も暗くなった気さえする。



​「私の為に生き、私の為に生まれてきた。誰が母か?…言わずとも知っておろう」


​闇が、部屋の大半を占めている。
​頼る蝋燭の灯りは先ほどよりもゆらゆらと、不安定に揺れている。
​恐ろしい声なのに、安寧から紡がれる言葉は、まるで雪解け水のように清らかさを感じる。


​対して蘿蔔は、俯いたまま闇に埋もれていくような気がして仕方がなかった。


​生まれながらの神と、全てが中途半端な自分では比べようが無い。
​グラグラと、視界が揺れるのを感じ、蘿蔔は額に手を当てた。


​すると、その手にほんのりと暖かい安寧の手がそっと、添えられた。
​蘿蔔は飛びのきそうなほど驚き、弾かれるように顔を上げた。


​「蘿蔔。私はお前に期待をしているのだ。…お前は神に成れる筈だった者。これが終われば神にもなれよう。六千年。この長きに渡り、女神に連れ添ってくれたお前を、私は誰よりも知っているぞ。私の子よ。母がため、腕となり、足となってくれるか?」


​眼前の、揺れを振り切るように、蘿蔔は頭を下げた。


​たっぷり水を含んだ、安寧の漆黒の瞳を見返す事に、蘿蔔はもう耐えられなかった。

​白い顔に浮かぶその瞳は、これからする事が聖戦だと言わんばかりに輝きを湛えている。​清らか過ぎるのだ。

​安寧の着ている物も、使う物も、全てが真白き輝きを湛えていて、触れる事すら恐ろしい。

​泥と血に塗れた自分の奥底が「危険だ」と言うのだが、それと同時にどこからか「勤めを果たせ」と急き立てる声がする。



​前にもこんな事があった。
​当時は若いだけあって、感情のままに駆け抜けたものだったが、今はあの時と比べたらまだ、心の余裕がある。

​それに…。今度こそ、やり遂げなければならなかった。



​「蒲公英を、謡谷の我が屋敷へ」


​「御意に」


​そう強く、短く言うと、蘿蔔は消えた。




​精霊特有の燐である、淡い緑の光の粉が上に一度舞い上がり、ややするとふわふわと重力に伴い畳に向かって落ちて行った。


​安寧は、その光の粒を一つ掴み、握り込んだ。


​「妥協などせぬぞ。何を犠牲にしても、打つ点がある」


​安寧は障子を開けた。辺りには誰の気配も無い。


​「弱き“人”よ、足掻いて見せよ。
​“万能”の神よ、御覧じよ。
​その目で終焉を看取り、奮い立て」



​風除けの垣根を飛び越え、冷たい風が部屋に飛び込んでくる。
​ボッと、音を立て、部屋の灯りを風が消した。


​燻(くすぶ)る蝋燭の匂いと、湿気を含んだ冷たい空気が、誰も居なくなった闇の部屋に、いつまでも居座ていった。


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​…#07へ続く▶▶▶


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ご興味頂きましてありがとうございます。書き始めたきっかけは、自分のように海の底、深海のような場所で一筋の光も見えない方のために何かしたいと、一房の藁になりたいと書き始めたのがきっかけでした。これからもそんな一筋の光、一房の藁であり続けたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。