老舗温泉旅館ー走る若女将。血塗られた白雪の湯ー
若女将は急いでいた。女将になって十年、もう若くないとか言われそうだけど十年、いやそんな事よりおそらくはこの旅館の七十年の歴史で初めての事件に若女将は小走りで大浴場へと向かっていた。
この温泉旅館の一番の自慢である大浴場は、県内の観光名所である渓流を模している。趣きある温泉を渓流の小径を歩くように繋ぎ、館内にいながら温泉巡りをしている気分になれる。その小径の中程で女性が倒れていると連絡が入ったのだ。ただ倒れているだけなら時折のぼせて倒れるお客様もいるので若女将が駆けつけなくとも中居さんで対処できるが、血が…。小径の横を流れるほどの流血があるとなると、若女将と警察と探偵気取りが必要となってくる。
「勘弁してよ、温泉旅館で事件なんてサスペンスドラマじゃないんだから。」
若女将は小さく呟いた。事件じゃありませんように、と祈りながら。でも少しだけドキドキしながらようやく大浴場の姫と書かれた暖簾をくぐる。脱衣所を抜けて小径を進むと、白雪の湯と蜜柑の湯の間に配したベンチの上にタオルを身体にかけて横になっている女性がいた。良かった、血塗れと言う訳ではなさそうだ。確かに顔色は真っ青だが駆け寄って見ると意識もきちんとありそうで瞳もしっかりとしている。
「大丈夫ですか?どうなさいました?」
若女将の声に女性は青い顔のまま首を横に振り、ゆっくりと片手を上げてもう一方のベンチを指さした。見ると、髪の短い女性が足を上げて座っており、横に年配の女性が立っていて、若女将を呼んだ。
「すいません、こっちです。」
何のことやら分からないまま、そちらのベンチへ近づくと、そのベンチの周囲は確かに血だらけになっている。驚いている若女将に髪の短い女性は経緯を話しだした。
その日、姉妹でお金を出し合い、この温泉旅館へと家族旅行に来ていた。両親はお茶を姉妹はビールを軽く2本づつ飲んでから大浴場へ。姉妹に連れられて「あら綺麗ねぇ。」と渓流を模した小径を眺めながら母親が歩き出した時、姉はこの小径が少し水が流れていて滑りやすかった事を思い出す。「お母さん、足元滑りやすっ…」と声をかける途中でスッテンコロリン。自ら派手に転んだのだった。
「すいません、母に気をつけてって言おうと振り向いたら自分が転んでしまって。お酒を飲んで温泉に入ったせいか、なかなか血が止まらなくて…。」
ベンチの上に置かれた女性の足は確かに少し切れていて出血していた。事件では無かったのでホッとしながらも、若女将は手早く手当てをして、怪我をさせてしまった事を詫びた。髪の短い女性と母親はむしろ血で汚してしまった事を詫びて、最初のベンチの方へ向かった。そうだ、この顔色の悪い女性はどうしたのだろう。
「こちらの方は大丈夫ですか?」
もう一度声をかけると、髪の短い女性が答えた。
「大丈夫です、すいません。妹なんですけど、とても血に弱くて。私の出血を見ただけで倒れちゃったんです。」
「す、少し休めば大丈夫ですから…。」
若女将は水を買ってきて顔色の悪い妹に渡しながら、小径に水を流すのをやめようか滑り止めを敷こうか考えていた。とにかく、事件じゃなくて良かったと心の中ではホッとしつつ、ほんの少しだけある残念な気持ちは顔に出さなかった。