ドーナツ　一個

2024年7月23日 19:57

あらすじ
顔見知り程度の近所に住む人から貰った手作りらしきドーナツ。食べると幸せになり他の人にもすすめたくなる。ドーナツと笑顔が広がっていく一方で倒れる人々。あなたの大事な人が食べているのは本当にドーナツですか。

風が止んだ。
千鶴は背中を伸ばして空を見上げる。灰色の濃淡で塗られた空からは直ぐにでも雨粒が落ちてきそうだ。
小さな庭に申し訳程度に作られた家庭菜園で今日の収穫は小さな形の悪いピーマンが一つと育ちすぎた胡瓜が二本。植えた覚えが無い小指の爪程の苺が四粒。放ったらかしにしては上出来だ。
千鶴は庭仕事が嫌いだった。庭仕事をする大人を見ながら年齢を重ねたら好きになるものかと思っていたが還暦近くなっても変わらないのだから、もう好きになる事は無いだろう。除草剤でも撒いてしまいたいけれど、春になると父が毎年野菜を植えたがるから仕方なく苗を買う。父は苗を植えた後は畑の事など忘れてしまうらしく手入れも収穫もしない。荒れた庭で自力で育った食べられそうな野菜を千鶴が収穫する。そんな状況が数年続いていた。
まだトマトが赤くなっていないのを確認して家に入ろうと振り向くと、視線を感じた。
またか、と溜息を吐く。
通行人や近所の人はよく庭を見ていく。気になるなら雑草くらい抜いてくれたらいいのに、千鶴と目が合えばすぐに歩き去ってしまう。
けれども今日は道路側に七十代位の女性が立っていて、千鶴と目が合うと近づいてきた。楽そうな花柄のワンピースを着ている女性はおそらく近所に住む松田さんだ。おそらく、と曖昧なのは千鶴が近所付き合いをしていないせいもあるだろうが、数年前から無表情で挨拶もあまりしなくなっていた松田さんが珍しく笑顔だったからだ。
「こんにちは。雨が降りそうなのに偉いわね。」
「こんにちは。」
松田さんの笑顔は見慣れないせいか違和感がある。
「お父さんは元気？」
元気ではある。色々な事を忘れつつ、寝ていることが増えたけれど。
松田さんは千鶴の返事を待たずに手に持っていた紙袋を差し出した。
「これ、お父さんと食べて。」
母が生きていた頃は近所と野菜などのやりとりがあったらしいが、正直面倒なので断ろうとした千鶴の手を松田さんは強く掴んで紙袋を強引に持たせた。
「家に食べきれないほどあってね。ご近所に配っているの。ね？貰って。」
確かに松田さんの左手首にはまだ幾つか紙袋が下がっている。
「お父さんによろしくね。」
面のような笑顔のまま、松田さんは小走りに去って行った。
一層濃くなった灰色の空から雨粒がぱらぱら落ちてきて、仕方なく千鶴は収穫した野菜と紙袋を持って家に入った。