ドーナツ 十七個
金曜日の午後。
真子は歌いながら軽自動車を運転していた。
祐二が帰る前に家を片付けて、夕食を作って週末は一緒に過ごそう。祐二の驚いた顔を想像するとニヤついてしまう。
一人で歌っているのが他の車から見えていたら恥ずかしいかな、と赤信号で停車すると口を閉じる。ちらりと見た隣の車は前を見たままドーナツを食べていた。
夕食には何を作ろう。里帰りする頃はつわりが酷くて料理なんて殆ど出来なかったから、今日は祐二の好きなものを作ろう。
スーパーで買い物をして行こうと駐車場へと入って行く。空いているスペースに車を止めると隣の車の人がドーナツを食べていた。スーパーから出てくる人達も食べている。新商品の試食かな。
真子はドーナツを食べている人達を見ながら店内へと入った。
店内用のカゴをカートに乗せて押しながら歩き出し、やっと何かがおかしいと思い始めた。
他の客がドーナツを食べているのは、分かる。けれどエプロンをつけた店員もドーナツを食べている。いつも会員カードを勧めてくる人も、サービスカウンターでも、花屋も、クリーニング店も。みんな薄ら笑いを浮かべ黙々と黒いドーナツを食べ続けている。
スーパーの棚には野菜も果物も並んでいないし、品出ししている店員もいない。
何だか嫌な感じがする。何も買わずに帰ろうとカートを元に戻していると、こんにちは、と声を掛けられた。振り向くと保険のジャンパーを着た女性が立っていた。
「保険は今はいいです。妊婦なので。」
「いいえ、保険の話じゃありません。幸せのドーナツをお配りしています。どうぞ。」
彼女の腕にかけたカゴに黒く歪なドーナツが山盛り入っていて、真子に笑顔で勧めながら自分も次々に食べている。
「いいえ結構です。」
断っても真子の前に立ったまま食べ続ける。
「美味しいですよ。幸せの味なんです。」
何だか保険と言うより宗教みたいだ。
「あなたも幸せでお腹を満たしましょう。ほら、あちらの方はもうお腹いっぱい幸せになったようですよ。」
女性が指さす方を見ると棚の向こうの床に足が見えた。お腹いっぱいで倒れているのかと棚の向こうを覗き込む。
床には三十代くらいの女性が長い髪を振り乱して駄々をこねる子供のように手足を動かしていた。ううう、と低く唸るような声を出し、激しく腹部を掻きむしる。
ドーナツで食中毒だろうか。駆け寄ろうとした真子の目の前で女性の腹部が裂け、ポップコーンのように次々と黒い塊が溢れ出てきた。先程まで虚な笑顔でドーナツを食べていた人達が寄ってくると歪な黒い塊を拾い、食べ始める。
真子は吐き気を抑えながらよろよろと後ずさった。とん、と誰かの肩にぶつかる。
ぶつかった相手は怒るでも謝るでもなく真子に笑顔でドーナツを差し出す。
「さぁ、あなたも食べましょう。幸せの味がしますよ。さぁどうぞ。」
「食べなさい。」
「本当に美味しいですよ。」
周囲に集まってきた人達の無数の手がドーナツを真子に向ける。
「いや!」
真子はドーナツを持つ手を払い除け、外へと逃げ出した。
外に出てもドーナツを持った人達が真子を取り囲む。何なの。怖い。
次々に差し出される手を振り払いながら真子は泣いた。ドーナツを詰め込まれないように手で押さえた口から大きく悲鳴をあげる。
ドーナツを持っていない手がひとつ、真子の腕を掴んだ。咄嗟に振り払おうとしたが、一人だけ笑っていない女の子の手だと気づいた。
「一緒に逃げよ。」
高校生くらいの女の子に引っ張られてドーナツの輪を抜け出すと真子は大きく息を吸って涙を拭いた。
「待って。こっちに車があるの。」
女の子の薄気味悪くない明るい笑顔に真子はようやく緊張が解ける気がした。
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