急いで。
それは一瞬の出来事だった。あまりに唐突で、すぐに何が起こったのか理解できなかった。激しい衝突音と強い衝撃。停車。慌ててドアを開けて降りようとしたが、開かない。
「運転手さん、どうしたの?大丈夫?」
運転席からの返事は無かった。外は騒々しく、クラクションの音が鳴りっぱなしだ。
どうやら、事故に巻き込まれたらしい。
窓の外には人が集まってきている。向こうに停車している車の窓から人が担ぎ出されているのが見えた。こっちのタクシーに集まってきた人々も中をのぞいて声をかけてくれた。
「大丈夫ですか?出られますか?」
やはり運転席からの応答はなく、ハンマーみたいな器具で窓を破り、引っ張り出している。私も後部座席から必死で窓を叩き声をあげた。
「いまガラスを割りますからね。」
「ちょっと待って下さい。ガラスを割らずに出たいんです。なんとかドアを開けられませんか?」
ハンマーを持った人は困惑して手を止めた。周りの人々にドアを開けられるかと聞いてみてくれたが、急いで脱出した方がいい、ガソリンに引火して炎上するかも知れない、と急かされた。
「ガラスで傷つけたく無いんです、なんとかドアを開けてください。」
「出来るだけ怪我しないように大きく割りますから。下がっていてください。」
「嫌です。お願いですからドアを開けて。窓から出たく無いんです。引っ掻き傷とかつけたく無いんです。お願いします。」
ハンマーを持った人は私の必死の訴えに眉をしかめたが、チラリとボンネットの方を見ると
「もう時間がありません。煙が出ています。爆発したら助けられない。引っ掻き傷で済むなら良い方でしょう。ー下がって。」
と早口で言って窓を叩き始めた。すぐに窓にヒビが入り、割れていく。私の訴えを体に傷を残したく無いせいだと思ってくれたのか、窓枠ギリギリまで割って、手を差し出してくれた。
「さぁ、早く!」
もう窓から出るしか無い。どうかどこも引っかけませんように。祈る気持ちで長い手袋をはめた手を伸ばした。
数人が私の手を引っ張り、外へと出してくれる。
ビリッ
嫌な音が聞こえた。あぁやっぱり窓からなんて無理だった。私は泣きそうな顔で引っ張り出され、高いヒールで道路に立った。裾を確認する。あぁレースが。シルクと思われる部分も。縦に大きく裂けている。
呆然と立ち尽くす私を見て、助けてくれた人達と駆けつけた救急隊員は少し声をかけるのをためらったような不自然な時間が流れる。
「だ、大丈夫ですか?」
「…私は。ありがとうございます。」
せっかく助けてもらった礼は言ったものの泣きそうだった。
「何時からですか?ケガが無ければ出来るだけ早く行けるようにします。」
救急隊員はウェディングドレス姿の私に気の毒そうに声をかけてくれる。私は首を横に振った。
「…大丈夫です。今日式がある訳じゃないので。」
「良かった。見る限りケガは無いようですね。」
事故現場にウェディングドレスで目立つ私を沢山の人が取り囲む。「これから挙式じゃないらしいよ。」「じゃあどうしてドレスなんだ。」「試着姿を彼に見せに行くとかかな。」憶測が飛び交う中、動画や写真を撮ろうとする手が伸びた。
「やめて!止めてください!」
慌てて顔を手で隠す。と、人垣を掻き分けて男がやってきた。
「やっと…やっと見つけた。」
息を切らせている。必死で追いかけてきたのだろう。キッチリと整えられていた髪が少し乱れている。そのスーツ姿を見てまた周囲で憶測が飛び交った。「あれ旦那じゃない?」「まさか、逃げてきた花嫁!」「いやあれは新郎用のスーツじゃないよね。」少し遅れて、ゼイゼイ言いながら女もやってきた。「分かった!ドレスの試着中に浮気相手が乗り込んで来て修羅場になったんだ!」ーそれだ!それにしよう。
「酷いじゃない、私と結婚するって言ったのに!何なの、その女!」私は大声で喚き散らした。急に悲劇のヒロインを演じる私に、女の方はまだ息が整わずゼイゼイ言うだけだ。男の方は驚いた顔ですぐに訂正した。
「何言ってるんだ。違うだろう。」そう言う男に周りから「違うって何だ」「酷い男だ」とヤジが飛ぶ。私を映そうとしていた無数の手はいまや二人に向けられている。必死に「違うんです!」と否定する男の声が群衆にかき消されていく中、私はヒールを脱いで右手に持ち、左手でスカートをたくし上げて走り出した。
「あっ!また逃げるぞっ!待てっ!」
背後で式場スタッフ達の声が聞こえた。向こうも必死だろうが絶対に捕まるもんか。このドレスはあんな若いだけのアイドルになんか似合わない。彼が読者モデル時代からずっとファンだった私の方が相応しい。この結婚は間違っていると彼に教えなくちゃならない。だから婚約発表されてからずっとドレスを盗む機会を待っていたのだ。
私はウェディングドレスのまま必死で走った。とりあえず彼の実家へ、急いで。