ドーナツ 三個
蒸し暑い。
夏に文句を言っても仕方ないけど、蒸し暑い。こんな日に高齢者宅へ行くのは気が乗らない。いや正直に言うと一年中いつだって気が乗らない。
仏頂面でこちらの言う事を少しも聞かない。ハイハイと返事はいいが少しも分かっていない。ちょっとでも知らない単語を言うと感じが悪いなどと怒り出す。高齢者全員では無いけれど、九十年近く生きてきて誕生祝いを持ってきたただの市職員にくらい笑顔で対応出来ないものかと思う。
佐藤静香は携帯用扇風機を顔に当てながら歩いていた。ずっと心中では悪態をついているけれど顔だけは穏やかさをキープしている。
誕生祝いを持って高齢者の所在確認をする。
それだけで安定した給与が貰えるのだ。今月はボーナスも出ると思えば少しは足取りも軽くなった。
田中弘蔵と書かれた立派な表札を確認してインターホンを押す。この家には九十歳になる弘蔵と娘の千鶴が住んでいる筈だ。少し前まではこの家で時折女性の怒号がすると通報があったが、最近はそんな通報も無い。仲良くやれるようになったのか、弘蔵を施設に入れたのか。
「はい。」
「市役所より弘蔵さんにお誕生日のお祝いをお持ちしました、佐藤と申します。」
「少しお待ち下さい。」
怒号がしたと聞いたから荒れた家から荒んだ女が出てくるかと想像していたが、田中千鶴は身なりを清潔に整え、穏やかな笑顔で玄関に現れた。
「暑い中ご苦労様です。」
「ご本人に直接お渡しする決まりになっていまして、弘蔵さんはご在宅でしょうか。」
田中千鶴は笑顔のまま、どうぞと家に入れてくれた。
玄関から居間まで綺麗に掃除された床、紙類が乱雑に置かれていないテーブルを見て佐藤静香はほっとした。怒号が無くなった理由に、まさかとは思うが高齢者が亡くなったのを隠している事もあり得ると考えていたからだ。だがそういう家は大抵掃除などしていないと聞くし、この田中家は異臭もしない。
異臭どころか、まったりと静香を包むように甘く美味しそうな匂いが漂っている。
「どえぞ、そちらに座ってお待ち下さい。父の様子を見てきますから。あぁ良かったらドーナツを召し上がって。とても美味しい自信作なんです。」
静香にソファを勧めて千鶴は居間の奥から続く廊下へと消えて行った。
テーブルの上には黒い塊が皿に乗せられている。大皿に山のように積まれたそれは高齢者と二人暮らしには多すぎる。見た目は黒すぎるし歪でぼこぼことしているのに、耐え難いほどの甘い匂いが静香を手招きしているかのようだった。
ーー食べても大丈夫かしら。こんなにあるんだもの、一つくらい食べてもいいよね。召し上がってと言われたんだし…。
静香は黒い塊を一つ指で掴むと、そっと一口齧ってみた。
口の中から鼻や脳へと軽やかな甘さが駆け抜ける。ほんのり苦味があるのはココアだろうか。
美味しい。美味しい。もう一つ。あと一つ。
「すみません。父は今日は少し体調が悪くて。」
千鶴に話しかけられて気がつくと皿の上のドーナツはほぼ無くなっていた。
「嫌だ!私ったらこんなに!…すみません、あんまり美味しくて。」
千鶴は呆れるどころか笑顔で頷いた。
「そうでしょう、美味しいでしょう。作りすぎたからお土産に持って行って。」
「いえ、そんな。」
恥ずかしくて静香が俯いていると奥の方から男の声が聞こえた。
「今日は起き上がれなくてすまないねぇ。千鶴、お詫びにドーナツを持たせてやってくれ。」
「父も言ってますから。ね?」
「…ありがとうございます。」
静香の中で恥ずかしいよりあの甘美な味をもっと食べたいという欲求が上回った。
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