創作小説「金魚」
「あたし、とっくの昔に死んじゃってたんだ」
君は昨日食べた晩御飯を思い出したかのような口調で僕にそう言った。日差しと日陰の合間に居る君の、白い肌がゆらゆら揺れた。僕は何も言えず君を見つめた。1秒たりとも目を離さないようにじっと。時間が止まっているかのように、ただただ見つめた。辺りは蝉の声が煩く響いていた。
君との出会いは突拍子もなかった。
「ねぇ、それ当たりだよね。当たりだよね。」
幼い頃から通っている駄菓子屋の帰り道。古びた駄菓子屋の帰り道。一本道を抜ければ高層ビルに囲まれる都会に、置き去りにされたような小さな駄菓子屋の帰り道。
「ねぇいいでしょ?それ、私にちょうだい。」
会ったことも無い少女と出会った。
日が照りつける焼けるような夏。歳は僕と同じ高校1年生くらいと予測する。彼女はどうやら僕が食べ終わったアイスの棒が当たりということに、どういう視力なのか数メートル先から気付き駆け寄ってきたのだった。
「……別にいいけど。」
そうして彼女にそのまま渡した。そのまま渡すべきなのか凄く悩んだが、彼女はものともせず、まるで買って欲しいと駄々を捏ねてしぶしぶ買ってもらったお菓子を渡されるように飛び跳ねて喜んだ。悩む暇もなく奪い取られたの方が正解だろうか。
「やった!やった!ア!タ!リ!」
彼女の髪は黒く腰の辺りまで伸び切っていた。喜ぶ彼女の身振りに合わせて毛先も踊っていた。白いワンピースはシンプルだが、青白い肌の彼女にはとても似合っていた。そして裸足であった。
「ばあちゃんとこによく行くのか?」
ひとしきり跳ねた後、大きな目をキラキラさせながら当たりの棒を宝物のように見る彼女に聞いてみた。他にもっと聞かなきゃいけないことはあった気がするが。
「ばあちゃん?」
なにそれ?とも言わんばかりの表情で、僕があげたアイスの棒をそのままポケットに突っ込もうとしていた。
「いや、待て。汚れるだろ。白い服なのに。」
咄嗟に僕はビニール袋を取りだし彼女に渡してやった。この子はアホの子なのか?
「あぁ、そうだよね。ありがとう。」
にっこり笑ったかと思うと目の前でばたりと倒れたのであった。
救急車を呼ぶか迷った。何故か呼んではいけない気がしたのだ。非常識と思われるかもしれない。しかし僕の第六感がそれは違うと、全く違わない事を強く拒否したため今に至る。
僕は彼女を部屋に運んだ。
ここでひとつ、物凄く失礼だが、予想外だったことがあった。彼女は暖かかった。
なんとなく、なんとなく思ってしまっていたのだ。この子は彷徨う魂なのでは無いかと。しかしそこにはしっかりと器のある生身の少女が居たのだった。
彼女の極度に火照った身体に、僕は熱中症だと察した。冷房をかけて、冷枕を用意して首を冷やし、脇に氷嚢を挟ませた。後は何をすればいいだろうと取り急ぎアパートの下の自動販売機でスポーツドリンクを買って戻った時、彼女は窓の外をぼーっと見ていた。先程まで回復の兆しがこれっぽっちもなかった彼女が平気な顔で振り向き微笑んだので、僕はスポーツドリンクを床に落とした。
「気づいたらここに居た。もしかして君、魔法が使えるの?」
けらけら笑う彼女に僕が安堵で倒れそうだった。
「家はどこ?」
「わからない。」
「名前は?」
「んー、それもわからないんだなぁ。」
「迷子の子猫ちゃんかよ。」
「子猫?子猫って可愛いよね!」
こんな調子で受け答えする僕の部屋に来てしまった迷子の子猫ちゃんは、よく分からないまま保護することが決まった。
もしかしたら家庭に複雑な事情を抱えてるパターンなのかもしれない。きっと彼女も夏休みだろうし少しの間ここに居ても大丈夫だろう。そんな僕の優しさを無下に彼女は一思いに家のベランダに面する大きな窓ガラスを叩き割った。止める間もなく、パリーンという破壊音。次の瞬間見た時には、気持ちが良いほどに綺麗に窓が無くなっていた。
「えっと……これまた……どうされました?」
人は意味がわからないことが目の前で起こると、案外冷静になるのかもしれない。丁寧な口振りで彼女にその真意を聞いてみた。
「そうしろって。第六感が騒いだ。」
第六感なんて言葉知ってたのか。いやそこじゃない、いやでも理由はちゃんと言ってるけども。折角涼しい部屋に、遠慮なく蒸し暑い風が押し寄せる。
「とりあえず……ダンボールでどうにかするか……。」
「それならいいよ。」
まるで僕に許可するように、彼女は素早く返答したのだった。
それから僕達は、1箇所だけダンボールの壁で埋められた部屋で生活した。
「ねぇねぇ、ペン持ってない?」
彼女は冷やし中華を啜りながら僕の方に目をやる。なぜか箸を使うことを嫌い、その手に持っているのはフォーク。
「持ってるけど。」
「貸して。」
「何をするんですか。」
「お絵描き。」
「何処に。」
「そこ。」
彼女は麺を口から数本垂らしたまま、ダンボールの壁を指さした。彼女の行動は慎重に理由を聞かないと大変なことになる。身をもって知らされた僕は、彼女にルールを作っていた。その1、勝手に行動しないこと。その2、何をするか最初に僕に言うこと。その3、危ないことは相当の理由がない限り禁止する。しかし実際のところ、突飛な会話から始まるので、大体僕が理由を聞いてやるのがいつもの事だった。
「まぁ、いつになるか分からんが代用だし。構わないよ。」
「やったー!」
「ただし」
声を大きくして、万歳する彼女の注意を引く。
「そのダンボール以外は絶対にダメだからね。」
「ダンボールにだけ描くってことでしょ?」
「そう。そういうこと。」
こんな感じで、同じ歳くらいの子とは思えないレベルのまどろっこしくもとても重要な会話を日々重ねていた。
食べ終えた後、僕はたまたま持っていた7色の水彩マーカーを彼女に手渡し、ダンボールだけだぞともう一度念押しして皿を洗いに台所に向かうのであった。
僕の住むアパートの間取りは、台所とトイレと風呂は玄関の方の部屋に集まっており、そこと生活するスペースの部屋との間に扉があった。
正直僕は怖かった。今思えばなんで彼女から目を離してしまったのだろう。部屋が縦横無尽に7色になってたりなんかしたら、とうとう僕は本当に卒倒するだろう。まぁ、最悪の場合を考えた上で渡した水彩マーカーという選択だったのだが。この扉の向こうに、ずっと倒すと志してきた魔王が居る、今そこに立ち向かう勇者の如く、僕は扉を開けた。
そこには大人しくダンボールに無邪気にお絵描きする少女の姿があった。
よかった……!!!
「お皿洗い終わったの?」
そう振り向いた彼女の顔や手やワンピースにはマーカーにありとあらゆる部分に無造作に彼女の意図しないところで勝手にお絵描きされていた。
水彩マーカーでよかった……!!!
我ながら英断!!!油性だったら今僕はとてつもない絶望に打ちひしがれていた!!!
ダンボールには、顔のついた星やハートに虹が掛かり、僕の部屋は1箇所だけメルヘンなダンボールの壁で埋められた部屋へとグレードアップしたのだった。
彼女と僕は見かけは歳が近い。しかし一緒に風呂に入っていた。断じてそういうのでは無い。確かに僕はそういうことに興味が湧いて仕方ない歳頃ではあるが、彼女に対する感情は完全に保護対象だった。
だって……もしも1人で入ってる最中に、鏡なんか割られたらどうする……!!!
「濡れた足で走るな!!」
「石鹸を湯船に沈めるな!!!」
「危ないところに立つな!!!!」
「鏡に絵を描く…のはいいか。」
曇った鏡に彼女は楽しそうに絵を描いていた。
一見傍から見れば素晴らしいシチュエーションだが、そうはいかない。そもそも彼女に羞恥心というものが携わっていないのだ。使い方を説明しても覚えようとする意思が見えず、シャワーの出し方、風呂の入り方、石鹸、シャンプー、リンスなどの事を説明した挙句の果てに、彼女は一緒に入ろうと、最初からそうすればよかったのにみたいな、私天才!レベルの名案として僕に投げかけてきたのであった。
濡れた長い髪を拭いてあげていると、彼女はぽつりと呟いた。
「明日は星が降るよ。」
大きな目が鏡越しに僕の目と合った。
「やけに文学的で美しい日本語だな。」
えへへと笑う。うーんでもまぁ……と悩んだかと思うと一言。
「降るって言うか、ビューンって感じ!」
「一気に美しさが破壊されたな。」
彼女は僕より20センチくらい背が低かった。
「うん!ビューンだ!!!」
そう言って彼女は何も気にせず両手を勢い良く真上に挙げ、僕を突き飛ばすのだった。
「あ、ごめんね。」
そう、彼女は悪気は無いのだ。悪気は無いのだ…。ふつふつと込み上げるものを申し訳なさそうにする彼女に免じて押し込めるのであった。
翌日目を覚ますと彼女はいつにも増してなぜか上機嫌だった。よく見るとダンボールに星が追加されてあった。もしかすると他にも星が部屋に隠れてるのではないかと思いスリル満点のドキドキ賃貸お星様探しをしたが、別に何処にも彼女が生成した星は見当たらなかった。そんな僕の姿を見て彼女はクスクス笑う。やっぱり描いたな貴様…!!と思ったところに近所のスピーカーから警告音と地域放送が流れた。しかし、何を話しているのか全く聞こえない。
「なんかなってるね。」
「なんだろうな。」
「まぁ、大丈夫でしょ!一緒にここにいようよ。」
僕は最近ずっとテレビを見ていなかった。もしかしたら何かわかるかもしれないとリモコンを手に取ろうとした途端に彼女はリモコンを叩き飛ばした。ターンッと床に弾けるリモコンの音が響く。
「えっ。」
ムスッとする彼女。
「いやいや、もし本当になんか危なかったら大変だろ……。」
その瞬間彼女は素早くリモコンを拾い、それでテレビを真上からぶっ叩こうとしている。
「やめろっ!!!」
なんとか彼女を抱き上げテレビ破壊は免れたが、彼女はなぜか駄々を捏ね絶対にテレビをつけるなと僕に指切りさせた。何はともあれ、きっと考えがあるのだろう。テレビを真っ二つにされるくらいならと思い彼女の言うことを聞くことにした。
それが間違いだったことを知ったのはかなりどうにもならない状態になってからだった。凶悪な台風が真っ直ぐこちらへ向かってると気付いた頃には、暴風豪雨に雷。メルヘンダンボールが似つかわしくないバタバタという音を立て悲鳴をあげている。
「このまま吹き飛んだらどうするんだ……。」
僕は心細くなり彼女に聞いてみた。
「あははは!面白いね!一緒だから大丈夫だよ!!!」
その一緒だから大丈夫は、死ぬ時は一緒的なアレなのか、私と一緒なら無事でいられるなのか、聞きたかったが聞けなかった。彼女はダンボールが風でバタつくのが面白いらしい。ここまで余裕でいられると彼女が頼もしく見えてくるほど、僕の心は弱っていた。
「ダンボールの方にいると危ないかもしれないぞ。」
そう言っても彼女は一向にそこから動かなかった。
雨は先程よりは弱まり、そろそろ通り過ぎてくれたかと思った頃に物凄い強風が吹いた。この築30年のギリギリ平成生まれのアパートには無理そうな気がした。いつ天井が剥がれるのか、壁が持っていかれるのか、そんな不安を胸にしていると、彼女は僕の手を引っ張った。
「来るよ。」
何が…とも言わせてくれず、それは突然だった。バキバキ、バキバキバキというとても恐ろしい大きな音が鳴り響く。僕はもう正気ではいられず彼女にしがみつく。彼女は笑顔で両手を広げダンボールの方を向いている。よって僕らは、ぎこちなくみすぼらしい残念なタイタニック状態を生み出したのだった。
次の瞬間、ドォオオオオンという爆発音のような音が聞こえ、メルヘンダンボール窓は大破した。僕らに向かってくるように、まるで星が降るかのように、彼女が描いた星がこちらに向かって散り散りになって飛んでくる。
「来た来たー!!!!!」
空は予想外に晴天だった。星と雨粒が破壊された窓から吹き込み、そして太陽に照らされきらきらと輝く。喜ぶ彼女はこちらを向いてにっこり笑う。
「ほらね、星が降ったでしょ。」
その時間はまるでゆっくり流れるかのように僕の目に映った。後光が差す彼女と靡く黒髪。煌めく雨粒が降り注ぎ、ゆらりゆらりと揺れる白いワンピース。綺麗だった。
しかし僕の目は逃さなかった。彼女の背後に近づいてくる脅威を。無邪気に笑う彼女の背後の窓には風で飛ばされてくるネオンの看板が僕らめがけて突っ込もうとしていた。瞬時に何も知らない彼女を抱きしめ窓から離すように横のベットに飛び込む。背後で爆音と騒音が入り交じりいろんな物が壊れる音がした。
「ナイス。」
そう言って親指を立てながら笑う彼女。
「お前もな。」
窓ガラスがあったままだったら僕らの身体のあちらこちらに破片が突き刺さっていてもおかしくはなかった。ぐちゃぐちゃになった部屋の中にバカでかいネオンの看板と無傷の男女がベットで笑い合う非凡な景色が僕にはたまらなくおかしく思い笑いが止まらなかった。
その後、救助隊がやって来た。無傷の僕らを不思議そうに見ていた自衛隊員の親切な人達。何故ならこの台風によって窓という窓が割れまくり怪我人が後を絶えなかった様だった。僕らは平然と、台風によって窓が無くなりましたと深刻な表情で保険に申請し、無事にダンボール窓になる前の部屋に、あたかも何も無かったかのような素晴らしい部屋を取り戻すことに成功したのだった。
「海に行きたい。」
突然彼女はそう言い放った。僕に馬乗りになり寝ぼけ眼の僕の顔を覗いている彼女。彼女の奇行に慣れている僕はそんな事には動じない。
「あと、着物も着たい。」
勢い良く彼女が指をさす。久々に稼働するテレビに目をやると、浴衣特集が流れていた。
「あれは、浴衣だ。」
「火花も見たい。」
「それは、花火だな。」
「金の魚を釣りたい。」
「たぶん、それは金ではないし、すくうやつだな。」
「金じゃないの?」
「赤いんだよ。」
夏の風物詩のスタンプラリーでもするかの如く、彼女は次々にやりたいことを言う。とりあえず僕も暇だったので浴衣を見るついでに、海に行くことにした。
裸足で連れ回していると、周りに変な目で見られそうだったので買ってやったサンダルを履かせバスを乗り継ぎ海に着いた。
「海だ。」
着いた途端に白い砂浜を駆けずり回り銀色の波に飛び込む…という予想に反して、彼女は日陰近くに行き遠くから海を眺めていた。
「もっと近くで見ないのか?」
じっと海を見つめる彼女は、なぜか悲しそうに見えた。黒い長い髪が潮風に撫でられている。
「あ、そっか。」
ふと、彼女がなにかに気づいたように呟く。
「そっか。そっか。そうだった。」
「何がそうなんだ。」
彼女は笑いながら僕の方を向いて言った。
「あたし、とっくの昔に死んじゃってたんだ。」
笑顔で言うには残酷すぎる真実のカミングアウトに僕はうろたえた。心のどこかでもしかしたらそうなのかと思っていたが、本当に彼女本人の口から突きつけられると僕はどうしていいかわからなかった。僕は今どんな顔をしているだろう。彼女が消えてしまわないように、目の前から居なくならないように、僕はただただ彼女から目を離さないようにした。彼女は再び海に視線を戻している。
「とっくの昔って……いつだよ。」
しばらく続いた沈黙を、僕から破った。
「わからない。でもひとつ思い出した。よく海を見ていたの。」
「ここで?」
「わからない。でも窓から見てた。初めてこんなに近くに来た。綺麗だね。あたし願ったの。」
髪をいじりながら彼女は話し続ける。
「海に行きたい。誰かと海に行きたいって。海に行っていっぱい遊んで夕焼けの赤い海も見たいって。いっぱい笑顔になって、走りまわって……。」
海は変わらず波を押し寄せては引き返してきらきらと輝いている。
「忘れちゃった……。誰かを忘れちゃった……。忘れちゃった。」
彼女の声は潤んでいた。足元には大粒の涙がひとつ、ふたつと零れ落ちていく。
「……好きなやつだったのか?」
「大好きだった。」
俯いたまま躊躇うことも無く彼女は即答した。
「あれまぁ、ゆうくん。」
あまりに突然に名前を呼ばれ、体を硬直させる。声の方向には駄菓子屋のばあちゃんが居た。泣いていた彼女も驚いたのか、僕の後ろに隠れる。
「彼女かぁ?何泣かしてんだ。」
ばあちゃんは笑った。
「いや、その、えっと……」
戸惑う僕に泣いていたはずの彼女が口を開いた。
「泣いてないもん!」
何故だろうか、やけに対抗してるかのような雰囲気で僕の腕を掴み言い放った。
「あら、可愛い……」
そう言いかけてばあちゃんが固まった。眉をひそめじっと彼女の顔を見つめる。
「ばあちゃん、どうしたんだ?」
僕がそう声をかけた時、はっと我に返るようにばあちゃんは笑うのだった。
「なんだろうねぇ。初めましてだと思ったんだけど、どこかで会ったことがある気がして。ボケてきたかなぁ。不思議ね、あはは。」
その時僕はピンと来た。
「ばあちゃん、浴衣の着付け頼んでいい?」
全然話の流れに逆らっている、タイミングのおかしい僕の言葉に彼女は二つ返事で快諾してくれたのだった。
帰りのバスで彼女は窓の外を見ながらぼそっと呟いた。
「ゆうくんっていうんだね。」
そういえば僕の名前を教えていなかったことに今更気づいた。
「長田 悠って名前だよ。」
ムッとした顔で振り向き彼女は言った。
「あたしも名前が欲しい。つけて。」
「えっ。うーん、海は好きなんだよな?」
「うん。」
「じゃあ、海ちゃんでいいんじゃないか。」
「わかった。長田 海にする。」
ちゃっかり苗字をパクった彼女は満足気な笑みを浮かべたのだった。
海に行った日に、そこで数日後花火大会があることを知った僕は彼女を連れて行くことにした。彼女はとっくの昔に死んだらしい。しかし不可思議な点がいくつもあった。彼女はちゃんと僕の傍で生きている。触ると暖かいし食べ物もちゃんと食べられる。日が当たれば影が出来ている。ここまでだったらもしかしたら不思議体験としてある事なのかもしれないが、もう1つ。彼女は台風の際、救助に来た隊員にも認識され頭に被った土を払われているし、ばあちゃんもしっかりと彼女を見ていた。なんなら今、彼女はばあちゃんに着付けをしてもらっている。
「あんまり足を開いたり、動き過ぎたりしたらはだけちゃうからね。」
「わかった!」
彼女達の声と足音が近づいてくる。
「ゆうくん!!!」
僕を呼ぶと言うより叫ぶ彼女の声と共に、引き戸が勢いよく開かれる。そこには綺麗な紺に白い花が散りばめられた浴衣と金色の帯を巻いた可愛らしい彼女がいた。黒く長い髪はぴしっと結ばれお団子にされ、飾りがついていた。
「可愛いね。」
思わず口から出ていた。しかし、僕らが買った浴衣にこんな立派な帯……ついていたっけ。
「こっちの方が可愛いでしょ。」
後ろからゆっくりと来たばあちゃんがにっこり笑った。どうやら貸してくれたようだ。
「うみちゃんが金色だから金の魚絶対捕まえられる。」
そう言い彼女はにやにやした。赤なんだけどなぁ……。
「金色、とれるといいね。」
ばあちゃんもにやにや笑った。
「なんかばあちゃんと話したのか?」
祭りのメインの通りになる道に向かう夕暮れ時。辺りは僕たちの他にも花火を観に行くであろう人間がちらほらと歩いていた。
「ゆうくんは優しいって話した。」
「ほう。」
「あと仲良しだってこともね!」
やけにばあちゃんがニヤついていた気がして気になっていたが、割と普通の話をしていたようだった。
「あ!やだい!」
「屋台な。」
目を輝かせ今にも走り出して行ってしまいそうな彼女。案の定予想は的中した。
「うおー!!!!!」
感動の雄叫びをあげて走り去る彼女の手を掴み損ねる。何か言って止めなくては。
「本当に話したのそれだけか?」
大声で少し先の彼女に話しかける。
「そうだよー!一緒にお風呂も入ってるってね!!!!」
やけに響く声で僕に向けた言葉。周りの視線が一直線に僕に集まる。僕はそこから逃げるように全力で走り彼女を捕まえに行った。
「ねぇ!!みんなが持ってるあの雲みたいのは何!?」
人混みの中僕らは手を繋いで歩いていた。どうやら本当に祭りに来たことがないらしく彼女は目に入る知らないものを片っ端から僕に聞いてきた。
「あれはわたあめって言ってお菓子だよ。甘いの。」
「すごいすごい!!食べてみたい!!」
りんご飴を見れば、
「りんごがツルツルでキラキラだ!!」
と目を輝かせ、
水ヨーヨーの屋台をみつければ、
「ゆうくんが青でうみちゃんは……うみちゃんも青……水色がいい。」
と必死に取ろうと頑張っていた。はしゃぐ彼女に僕も嬉しく、楽しく時間が過ぎていった。
「そろそろ花火の時間だから、海辺に行こう。」
「え〜まだ金色みつけてないよ〜。」
金魚すくいの屋台を全て見てみたがやはり赤い金魚ばかりだった。僕は花火が終わったあとにまた探しに行こうとふくれる彼女を説得し、ラムネを2本買って浜辺に向かった。
案の定屋台でゆっくりしすぎた僕らの目の前には、この前来た海とは比べ物にならないほど大量の人がいる浜辺が広がっていた。
「うみちゃんもっと前で見たい。」
「言うと思った。でもここから前に行くのは大変だよ。」
「嫌だ!もっと前!!」
そう言うとなりふり構わず彼女は人混みに突っ込んでいく。
「待って……!!!」
繋いでいた手が人の中で振りほどかれそうになる。ここで手を離したら彼女と2度と会えない気がした。僕は無礼を承知で彼女と同様周りに突っ込みなんとか彼女の手を掴み引き寄せ強く抱きしめた。
「お願い……1人にしないで……。」
彼女はキョトンとして僕をみつめる。そんなにみつめないでくれ、少し恥ずかしくなって僕は目を泳がせた。
「そっか……そうだよね!ゆうくん怖いんだね!わかった!うみちゃんがちゃんとついててあげるね。」
彼女はにっと僕を見て笑う。そう、その解釈でいい。心做しか彼女の頬が赤い気がした。このドキドキはハラハラしたせいか、それとも…と思っていると今度は真逆に彼女が動き出した。
「えっそんな後ろでいいのか?」
「ゆうくんが怖いのはダメだよ。楽しめないもん。でもね、うみちゃんいいこと思いついたよ。」
彼女はグイグイ人をかき分け僕を何処かへ連れて行く。もう花火会場とは大分離れた場所に着いたのだった。
「ここならきっと怖くないよ。」
それはこの間2人で初めて海を見に来た場所だった。
「この間来たところだし、人も全然いない!ピンと来たの!第六感!いい考えでしょ!」
「本当にびっくりするほど人が居ないな。」
「ここならゆっくり出来るしうみちゃんもゆうくんもさっきよりずっと一緒な感じがするから安心!怖くない?大丈夫?」
僕を気にかける純粋で真っ直ぐな言葉に思わず笑ってしまう。
「うみちゃん変なこと言った?」
「ううん、ありがとう。うみちゃん天才だね。」
「ふふふ、でしょでしょ。」
花火が遠くなってしまっていないか心配ではあるが僕は彼女といればどこでも楽しい。それはきっと彼女も無意識にそう思ってくれているんだろうと不思議なあたたかい気持ちになった。
やっと花火を待つだけになった僕達はラムネを開けて浜辺に座っていた。浴衣を汚さないようにと念の為持ってきた大きめのシートは大正解だった。
「楽しみだなぁ。ねぇねぇラムネの中のビー玉って取れないの?」
シートに寝転んだ彼女が飲み終わったラムネを頭上にあげて中のビー玉をみつめている。
「取れるやつと取れないのがあるんだよな。」
同じく隣に寝転び彼女のラムネを覗き込んだ瞬間だった。
ラムネ越しに視界に入らないレベルの大きさの花火が一気に打ち上がった。
まるで夢の中にでもいるかのような大きな花火。
「わぁ……綺麗……」
ラムネのことなんかどうでも良くなるくらいに大きな花火が次々と夜空に花を咲かせる。
「すごいよゆうくん……うみちゃんやっぱり本当に天才かもしれない!!」
彼女は僕にぴったりとくっついて花火を見ていた。
「あ!」
何かを思いついたように彼女は横に置いていたラムネをもう一度頭上にあげる。
「見て!花火!捕まえた!!ビー玉が花火を捕まえたよ!綺麗〜!」
「綺麗だね。」
笑顔の彼女の目に映る花火も、その横顔もとても綺麗だった。
しかし彼女が掲げていたそれは僕の飲みかけのラムネであり気付くまもなく僕らの顔にラムネが直撃した。
「きゃー!!冷たい!!!」
「うわああああ!!!」
「あははは!!気持ちいい!!」
ものともせず顔を合わせてケラケラ笑う彼女に僕は何かが込み上げてくるのだった。涙が止まらない僕は情けなくなり彼女を抱きしめる。
「どうしたの!?怖かった!?泣いてるの!?」
「違うんだ。楽しくて嬉しくてなんかわからないけど涙が出るんだ。海ちゃんと花火を見れてることがなんだか凄く嬉しいんだ。」
そう言った途端ふわりと脳裏に何かが過ぎる。とても懐かしい記憶。彼女とは幼稚園の頃とても仲良しだった。おてんばだけど優しくて可愛かった彼女。しかし彼女は突然来なくなった。最後に話したのは……なんだっけ……。
走馬灯のように彼女との思い出がひとつひとつ蘇る。一緒に遊具でたくさん遊んだこと、園の中を探検だと言って行ってはいけない場所まで入って先生に怒られたこと、駄菓子屋によく行ってアイスを買っていたこと……。いつもアタリが引けないか話していたこと…………。ばあちゃんが言った「ゆうくんと……ちゃんは仲良しさんだねぇ」という言葉。
『……になったら、一緒に……行こうね。……ちゃん、絶対……から!』
思い出せ……!
「夏になったら、一緒に海に行こうね。うみかちゃん、絶対元気になるから。」
脳内の言葉は現実から投げかけられた。我に返り彼女の顔を見ると彼女も泣いていた。記憶にかかっていた濃い霧が一気に晴れていく。
「君の……本当の名前は……永嶋 海歌……。」
僕は驚きを隠せず彼女をみつめる。
「悠くん。海歌は悠くんと海来れた。花火まで見れちゃった。どうしよう、嬉しくても涙が出るって本当だね。」
そう言ってボロボロ泣いた。
「海歌ちゃん……!!!!」
「ずっと、ずっと約束守れなくてごめんね……。海歌ね……いつも、いつも病院の窓の外を見て思ってたの。悠くんと海に行くんだって……。でもね……。」
どんどん彼女の声が潤んでいく。
「でも……夏の前にね……」
「それ以上は言わなくていい。大丈夫。大丈夫だよ。分かってる。」
再び僕は彼女を抱きしめた。彼女は幼子のようにわんわんと泣いた。
「でも僕らは今、こうやって不思議な力で海に来れてる。ほら見て。特等席で花火を見てるよ。」
「うん……すごく、すっごく嬉しい。」
僕らはお互いを確認するようにさっきよりも身を寄せあって手を繋いで次々と打ち上がる花火をじっと眺めた。
彼女の正体は幼稚園の頃の大親友であり大好きだった女の子であった。しかしある時彼女は病に蝕まれる。夏になったら一緒に海に行こう。その言葉が彼女からの最後の言葉だった。それから少し経って初夏になり親にやんわりと告げられる。海歌と会えなくなったことを。家族ぐるみで仲が良かった僕らだったが、余りにも早すぎる死、そしてそのショックを受けるには僕には早すぎると親たちは判断したのだろう。僕は彼女の葬式に連れて行って貰えなかった。僕がはっきりと彼女が亡くなったことに気付いたのはそれから随分と経った後のことだった。
「悠くん……ずっと会いたかった。」
「僕もだよ。海歌ちゃん。」
花火の終わりの時間が迫っていた。
「ずっと一緒にいようね。」
そう言って彼女は僕をみつめる。僕は気付いていた。少しずつ…彼女の身体が透け始めていることを。
「ずっと一緒に居たい……居たいんだけど……。」
彼女の手をそっと掴み自分の頬に寄せる。涙が彼女の手をつたう。
「えっ……。」
彼女が自身の身に何が起きているか気付く。
「私……消えちゃうの……?」
僕は何も言えずやり切れない表情で彼女を見つめながら涙を流し続ける。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!!もう絶対一緒にいるもん!!海歌……一緒に……。」
その時はっと海歌は目を大きくして僕を見る。
「金魚だ。金色の金魚だ!悠くん!!!金色の金魚!!!!探しに行くよ!!!!」
「え?」
「いいから!!早く!!!」
そうして海歌は物凄い勢いで僕の手を取り走り出す。
「うわああ!?待て待て!もう屋台は……!」
「諦めたら終わりだよ!!私は諦めないもん!!悠くんは諦めるの!?海歌と一緒に居たくないの!?」
「そ……そりゃ!一緒に居たいに決まってるだろ!!!!」
「走って!!!走って!!!私そんな気がするの!!」
「何が!?」
「金色の金魚を見つけたら、悠くんとずっと一緒に居られる気がするの!!!!」
そうして無我夢中で2人は走り出す。海歌は、道行く人に金色の金魚を見なかったかと叫びながら走る。しかし誰も僕らに見たと言う人は居なかった。
「早くしなきゃ……早く探さなきゃ……。」
海歌は息を切らしながら辺りを見回し走り続ける。僕も必死になって探していた。最初に見回った屋台の会場はもう店じまいをし始めているところが殆どだった。
「おじちゃん!!金色の金魚知らない!?」
「えぇ?わかんねぇな。赤いのならいっぱい居たぞ?」
「お姉さん!!金色の金魚知らない!?」
「えぇと……ごめんね。分からないわ…。」
屋台を開いていた人達にも聞いてまわるが芳しい答えは帰ってこなかった。
「ここには……無いのかな……。」
辛そうに呟く海歌。彼女の身体はもう膝や肘まで透けてきていた。時間が無い。彼女から目を離しふと顔を上げた時、メインの通りから外れた細い道に怪しげな紫色の屋台があることに僕は気付く。
「海歌ちゃん、まだ歩けるか?」
「だ……大丈夫だよ。少し……息が苦しい……けど。」
「あそこ……。」
僕は真っ直ぐ先の暗い道を指差す。
「あ……なんかある。」
「行ってみよう。」
彼女をおんぶしゆっくりとその屋台に近付く。ぽつりとただ1つだけ開かれた紫に光る屋台には小さな老婆が1人。小さく金魚すくいと書かれた看板が掲げられており、水槽にはきらきらと輝く金色の金魚だけが泳いでいた。
「……おや、見つけたかい。」
老婆は僕らを見るとニンマリと笑う。僕は彼女の言葉にゾッとする。
「お、おばあさん、何か知ってるのか?」
「金魚!!金魚だ!!!!!金色の!!!」
彼女の言葉を聞いておらず背中ではしゃぐ海歌は自ら降りてくる。
「捕まえよ!悠くん……!」
海歌の手はもうほとんど透明だった。
「さぁ、捕まえてごらん。お金は要らないよ。」
「えっいいのかっ……!?」
「悠くん早く!!私にもそのすくうのちょうだい!!」
老婆はあるだけのポイを2人に渡し金魚を救わせようとする。
「大サービスさ。早く掬わないと花火が終わっちまうよ。」
どうやら老婆は僕らの状況を理解しているように感じた。それにしても……何故知っているのだろうか。兎に角、一刻も早く掬わないといけない。緊張で手は震え威勢のいい金魚たちに負けてしまう。
「うーん……難しいなぁ。さっき練習しとけば良かった。」
思いのほかマイペースな海歌に少し心が緩む。
「最初が1番掬いやすいらしいよ。」
「そうなの!?えいっ!んぁーまたダメだぁ〜。」
金魚すくいを楽しむ海歌は肩まで透けていた。それでも今度こそ!うりゃ!と必死に掬おうとする横顔にうっかり見とれてしまった。
「ほら、兄ちゃん。彼女が可愛いのは分かるけど、早くしないとだよ。」
老婆がはっはっはと笑い僕に話しかける。はっと我に返り再び金魚と睨めっこする。
「もう海歌が可愛いからって〜サボらないで!」
ふふっと笑いながら海歌が僕にそう言う。あぁ本当に海歌だな。本当に横に居るのは海歌だ。昔もそんなこと言われてた気がする。
「おばあちゃーん!!取れないよ〜!!!」
「頑張りなさいな。」
「もーう!!これ無理!!!」
「諦めるのかい?」
「ううん。おばあちゃん、怒らないでね。」
「んん?」
海歌はスっとポイを捨ててすくっと立ち上がる。
「何するんだ?」
そう言った時にはもう遅かった。海歌は金魚の入った水槽目掛けて思い切り手を突っ込む。ばしゃーんっと水しぶきが上がり僕と老婆は狼狽える。
「うわあああああ!!!」
水はほとんど全て僕の方に飛んできてびしょ濡れになる。
「悠くん!!おばあちゃん!!見て!!!」
かかった水が目に入らないように水滴を払って彼女を見上げると、そこには見事両手を器にして金魚をすくい上げる海歌の姿があった。
「うおおおおおお!!!」
僕が思いのほか声を上げてしまう。
「はーっはっはぁ。本当にあんたは面白い子だねぇ!!」
老婆は椅子から転げ落ちそうなほど笑うと、しょうがないなぁと小さく呟く。
「ねぇ!いいでしょ!!神様!!!」
「神様?」
海歌を見てもう一度老婆に目をやると、老婆は見る見るうちに曲がった腰は真っ直ぐになりすらっとした美青年になる。
「あぁ。楽しませてもらったよ。おかえり、海歌。」
そう彼が言うと海歌の手の中にいた金魚が眩しいほどに光り出す。他の金魚達も瞬く間に煌めき出し僕と海歌の身体がふわりと浮く。
「え!?なんだ!?」
「少年。彼女に掴まりなさい。」
「悠くん!おいで!!」
あまりの未知の体験に僕は情けない格好で海歌にしがみつく。
「あはは!悠くん怖がらなくていいよ!一緒だから大丈夫だよ!!!」
「その言葉……信じるぞ……!」
台風の時だって大丈夫だったじゃないか。
「さようなら、海歌。さようなら、少年。僕に楽しい夏を届けてくれてありがとう。久しぶりに楽しかったよ。」
「またねー!神様ー!」
「さ……ようなら?」
みるみるうちに空に浮かぶ僕らに、青年が手を振る。
「よーし、悠くん。帰るよ。」
「帰るって?何処に?」
彼女は僕を確認するように強く抱きしめて愛おしそうに手を繋ぎ体勢を直す。
「あ!見て見て!花火があがってる!!綺麗〜!!」
空高くに昇っているのに、彼女は怖がりもせず花火の方を指さす。目の前にはさっきよりも何倍もの大きな花火が球体のように見えた。
「お空から見ると花火ってまーんまるなんだね!」
「本当だな……。」
気が付くと先程の金色の金魚が僕らの周りに飛んでいる。
「そろそろだね……。」
海歌が金魚を見て呟く。
「悠くん。さようなら。」
「え!?海歌ちゃん!?」
「大丈夫。少しの間のお別れだよ。」
「嘘だ!僕達はもうずっと一緒だって……!!」
次第に僕らの周りを大量の金色の金魚が覆い出す。
「海歌!!!!!!」
繋いでた手がぱっと離されてしまう。
「海歌!!!海歌!!!行かないでくれ!!!まだ君と居たい!!!やりたいことも沢山あるんだ!!!海歌!!!!!!!」
優しく笑う彼女。視界は金色になり彼女の姿は見えなくなってしまうのだった。僕は全ての力を降り注ぎ彼女の名前を呼び続けた。
「海歌ーーーーー!!!!!」
「……悠?……悠!?起きたの!?」
「海歌は!?海歌はどこだ!?……ここはどこだ?」
「悠!!待っててね!今先生を呼んでくるから!!」
母さんの安堵する顔。彼女は走って部屋を出ていく。
僕が居たのは病室だった。静かな部屋には点滴と機械の繋がった僕がベッドにいた。時刻はもう夜遅くで、窓から夜景が見える。部屋の照明が付いておらず、その景色がやけに眩しく僕の目に飛び込んだ。
「全部……夢……?夢だったの?」
打ちひしがれる僕はただただ窓の外を眺める。どうしてだろう、光のつぶが歪んでいく。気付くと僕は大粒の涙を零していた。
「……んで……なんでだよ!海歌とやっと会えたと思ったのにっ!!全部、全部夢って……。」
ぽつり、ぽつりと布団に水滴が落ちては染み込んでいく。息を殺すように泣いて居てると病室の扉が開かれる。
「長田くん、長田 悠くん。よく目覚めたね。大丈夫……」
主治医らしき男性が駆け付けて話しかけてきたが、そんなのはどうでも良かった。僕はただただ絶望に打ちひしがれて身体を震わせていた。
「混乱していると思うが、君の状態を今説明するよ。君は1週間前にね、大きな事故に……」
落ち着きのある声でゆっくりと僕の様子を心配しながら主治医が話していたところに大きな通知音が鳴り響く。
「あっ、すいません。先生。病院なのに。マナーモード、マナーモードっと。」
母さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「あぁ、大丈夫ですよ。それでね、大きな事故に遭って」
「えええええええ!?」
今度は叫ぶ母さん。
「あのー……どうかされましたか?」
何度も話を遮られる可哀想な主治医。
「あっ、あっ、ご、ごめんなさい!!でも、えっ!!えぇ!?」
「どうしたんだよ母さん。」
あまりにも滑稽な2人のやり取りに少し落ち着いてきた僕は声をかける。
「悠……。」
母は恐る恐る僕に近付いて来て携帯の画面を僕に向ける。薄暗い部屋に慣れた目に刺さる眩しい光。目を細めながらよく見る。そこにはさゆりさん!!!と母さんの名前に沢山のエクスクラメーションマークがついた一通のメールが表示されていた。
海歌が!!!!!!海歌が目を覚ました!!!!!!!!
「……っ!?海歌は死んだんじゃないのか!?」
身体を勢い良く起こして僕は母さんに問いかける。
「海ちゃんね……。ずっと頑張ってたのよ……。海ちゃんのお父さんとお母さんがいつか娘は目を覚ますって……10年間待ち続けていたのよ!!!!!!」
母さんは泣きながら良かった……と口に手を当て鼻をすする。僕は衝撃の事実に目を大きくする。
「おい!!!海歌はどこの病院に居るんだ!?」
「ここの……病院の……7階よ!!」
それを聞いた僕は母さんも主治医もそっちのけでベッドから抜け出そうとする。
「ちょ、ちょっと!!君!!!!悠くん!!!君の身体でそんなに急に動いたら危な……!機械を外して……!!!」
「部屋の場所は!?」
僕は止まれなかった。
「Aの708号室……」
安堵の涙を流す母さんは弱々しい声で教えてくれる。
「ちょっと!!お母さんも悠君を止めて!!」
「先生〜!!!ありがとうございますぅ〜!!!良かったああ!!」
母さんも僕と主治医をそっちのけで感情が爆発していた。主治医は母さんに強く、それは強く握手されてしまい、僕を止めることは不可能になってしまったのだった。
「海歌!!!!!!!!」
僕は点滴を引っ張りながら708号室の扉を勢い良く開ける。
「ちょっと君!!!!ここは病院なんだからっ……て、君も患者じゃない!?何してるの!?何処から来た!?」
「海歌が居るのか?海歌がそこに居るのか??」
海歌の病室に居た看護師さんが僕を止めようとするがなりふり構わず僕は海歌に近づく。
「悠くん!?悠くんも大変な事故に遭ったのよ!?ちょっと!!大丈夫!?足引きずって」
海歌のお母さんが驚いて僕に声をかけ、彼女のお父さんは歩きづらそうな僕の身体を支えてくれる。
「ありがとうね。ほら、海歌。悠くんが来てくれたぞ。覚えてるか?」
海歌のお父さんは昔からとても落ち着きのある優しい人だった。息を切らす僕の身体をさすりながら海歌の枕元の方に行かせてくれる。
海歌はとてつもない量の機械に繋がれ、この10年間眠っていたようだった。しかしその顔を見て安心した。やっぱりさっきまで一緒に居たのは正真正銘、海歌だった。
「……海歌。……僕たち……帰って来れたよな。」
僕は彼女に確かめるように一言そう言った。人形のように色白な彼女は、10年越しに動かす瞼を重そうに開いて、ゆっくりとその目を僕に動かす。
「…………うみ。……透けてない?」
海歌らしい言葉に僕は頬が緩む。そして彼女の痩せ細った壊れてしまいそうな手を大事に大事に掴んで彼女が見えるであろう位置で繋いでみせる。
「うん。透けてないよ。」
僕の言葉に海歌は安心したようだった。そして何か口を動かしていた。
「ん?なんて?」
僕は海歌の口元に耳を寄せる。
「……になったら、一緒に……行こうね。……ちゃん、絶対……から」
周りが覗き込んで何を話しているのか分からない様子でいる中、その言葉に僕は大きく頷いた。大きく頷いて泣きながら彼女を抱きしめた。
「こ、こら!ちょっと!!患者同士だし!!!あ、あんまり刺激しないのよ!?」
看護師は慌てふためいていたが、僕らにはそんなことどうでも良かった。
「絶対行こうね。そして、絶対花火大会も行くんだ。浴衣を着て、いっぱいお祭りまわろうね。海歌が知らないこと、僕が全部教えてあげるからね。」
「うん……!」
僕らは泣き合った。嬉しい涙が止まらなかった。互いが居ることを確認するように、それはそれは強く抱き締めたのだった。
「ねーぇ。うみかちゃんもう飽きちゃったよ〜。お空からいろいろ見れるのは楽しいけどさーぁ?」
肘をついて足をばたつかせながら少女は美しい青年にムッと口をとがらせる。
「はははっ。飽きたなら、ほら、そこの扉を開けたらいいよ。皆あそこへ帰るだろう?」
白い雲の上の空間。そこには立派な美しい大きな扉がそびえ立って居た。
「いーやーだー!!!!なんかあっちには行きたくないの!!!だいろっかん!!!!あっちにはまだ行かないって、行っちゃダメだって思うの!!!!!」
「ふぅーん。君は随分と長くここに居るねぇ。」
優しい笑みを浮かべて、青年は海歌の頭を撫でる。
「だって!ほかの人たちはお迎えに来てくれる人が居るじゃん!!!なんでうみかちゃんには居ないの!?」
「うーん。この入口は正常に動いてると思うんだけどねぇ。今までこんなことは無かった。僕もここの担当になってそんなに経っては居ないから分からないけど、異例のケースだよ。」
海歌の横に座って考え事をする青年。
「ん?また白い光がひとつ上がってくるよ、神様。お客さんかな?……なんだろう、なんだかすごく眩しいよ!!!!ワクワクする!!!!!」
「ん?ワクワクする?眩しい?今までそんなことあったっけ?」
白い光はすぅーっと彼らの元にやってくる。それは高校生くらいの男の子だった。
「こんにちは!!……あれぇ?まだ眠っちゃっているみたい。なんだか苦しそうな顔をしてるけど、辛いことでもあったのかな?」
青年はそっと海歌とその少年に近付いて様子を見る。
あぁ……。これは事故だな。この感じだとだいぶ大きな事故だ。今まださまよっているから目を覚まさないんだな。
「ねぇ!!ねぇってばー!!!!!」
「おぉ、ごめんごめん。どうしたんだい?」
青年は海歌の声に意識を引き戻され少し慌てて彼女に目をやる。
「ねぇ!!!うみかちゃん!!!この人知ってる気がする!!!」
その言葉に青年は眉を顰める。
「えぇ?お得意の第六感かい?」
「うん!だいろっかん!!!!」
「うーん……。」
青年は思う。
あぁ……普通に生きていたら、彼女と同じ子達はもうこれくらいか。
「神様!!この子もお迎え来ちゃうのかな!?うみかちゃん、なんだかすごく嫌だよ!!この場所って、あの扉以外にも行けるところ無いの!?」
海歌は辛そうに青年に訴えかける。
「ここから出ようともどこかに行こうともしなかった君が……。そんなことを言うなんて。」
「うみかちゃんのことはいいの!!この子はだめ!!!!なんだか、大事なの!!!!よく分かんないけど!!!大事だから!!!」
青年はやれやれと笑いながらもう一度海歌と少年を交互に見つめる。そして彼らの情報を覗き込む。そして海歌がどうして彼に執着しているのか合点が行く。
「あぁ……。なるほど。なるほどねぇ。」
「……?なにかわかったの?」
首を傾げて青年を見つめる海歌。
「あぁー……。本当はこういうこと、あんまりしちゃいけないんだけどなぁ。」
そう言うと青年は額に手を当てて眉間に皺を寄せる。
「なになに!!なんかするの!?楽しいことならうみかちゃんも混ぜてね!!」
悩む自分とは真逆に、楽しそうに声をかけてくる海歌に、青年は苦笑いしながら決断する。
「特別なゲートを開いてあげるよ。海歌。」
しょうがないと溜息をつきながら優しい声で海歌に声をかける。
「げぇと?なにそれ?ちがう場所ってこと?」
きょとんとした海歌は青年の言葉を必死に理解しようと顔をしかめる。
「まぁ、そんなものかな。海歌。僕は少し旅行がしたくてさ。」
「りょこー!!いいね!!!!お母さんとお父さんと行ったことある!!……あれ、そういえば、お父さんとお母さんは……どこ?」
うん……。そうだよ海歌。君は10年もの間、彼らに会えてない。この少年が来たことによって、少しずつ記憶が戻ってきてしまっているな。
「あれ……。……なんでここに居るんだっけ。」
そうだよね。……うん。そうだね。君は……。
「でも、僕はここから動けないんだ。だからさ、代わりに海歌が旅行して来てくれないか?」
「…………え!?いいの!?えっ!!!!え!!!!いきたーーーい!!!!!」
「ふふっ。そう言ってくれると思ったさ。」
「うん!いっぱいおみやげかってくるよ!!!」
「ははは、有難いなぁ。でもね、お願いがあるんだ。大事なお願い。」
その言葉にぴょこぴょこと跳ねていた海歌はピタリと止まる。
「お願い?」
「うん。よく覚えておくんだよ。金色の金魚を見つけて欲しい。」
「金魚はみんな赤いよ。赤い金魚しか知らない。」
冷静な彼女の言葉に青年はふっと笑う。
「大丈夫。ちゃんと金色の金魚も居るんだ。それを見つけて手に入れて欲しい。僕はどうしてもそれが欲しいんだ。」
「へー。わかった!神様のために、一生懸命探すね!!!」
「うん。ありがとう。」
金色の金魚!と口に出して忘れないように何度も連呼する海歌。
「あと、その子と行って欲しいんだ。」
その言葉に海歌ははっとする。
「え!?いいの!?ひとりぼっちなのかと思ってちょっと心配だったんだよね。良かったぁ。でもこの子とお友達になれるかなぁ?まだ眠ってるよ?」
心配そうに海歌は少年の顔を覗き込む。
「きっとすぐに仲良くなれるさ。ほら、そこの扉、そこから旅行に行けるよ。」
ふわっと霧がかっていた場所から金色の金魚がひらひらと泳ぐ様子が描かれた綺麗な扉が現れる。
「わぁー!!!綺麗!!!!」
その時、ずっと眠っていた少年は目を覚ます。
「……あれ、ここは……どこ?」
その声に海歌は目を輝かせる。
「こんにちは!!初めまして!今から一緒に旅行に行くよ!!!」
少年は何度も瞬きしてきらきらした目を向ける幼い少女を見つめる。
「……旅行?」
「うん!!!ほら、手、繋ご?」
「あ、あぁ。」
海歌に言われるがままに少年は手を繋ぐ。すると海歌は青年の方を振り向く。
「神様!!!神様の分まで楽しんでくるからね!!!金色の金魚!忘れないからね!!!!」
「あぁ。約束、任せたよ。楽しんでいってらっしゃい。」
「うん!!!!!」
そうして2人は扉の方へ歩き出す。ふらつく少年を心配しながら海歌はゆっくりと扉の方へ足を進める。青年は彼らの後ろ姿を見ていた。
海歌が扉へ近付けば近付くほど、背丈はすーっと伸びて髪はふわりと長く伸びた。
「あぁ、やっぱりか。」
16歳の少女の姿になった海歌は扉の前で立ち止まり、少年は首を傾げて彼女を見る。海歌は青年の方を見ずに言うのだった。
「神様、10年間ここに居させてくれてありがとう。」
青年は彼らに近付いて2人の肩に手を置く。そしてそっと祈る。
「あぁ。君との日々はとても楽しかったよ。…………悠、海歌を頼んだ。」
「「えっ……!」」
2人が少年の名前にはっと顔を合わせた瞬間、青年は彼らを扉の向こうに押し出すのだった。そうして海歌と悠は両手を繋いで、繋がっている世界に急降下する。
うわぁあああ!!という驚く声はどんどん遠くへ行き、聞こえなくなるのだった。青年はにこっと笑って扉を閉める。
海歌。君には迎えがいなかったんじゃない。
君が迎える側だったんだ。
青年はすぅと深呼吸をして愛おしそうに扉を見つめる。そして微笑んで言うのだった。
「いってらっしゃい。海歌。」
end