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梅泳ぐ心のまにまに

雲から落ちる極小の雨粒たちが、窓に着地していく。

窓を開けて、手を出してみた。水の粒子が手にまとわりつく。雲の中に手を入れたような、不思議な感触。庭のハーブたちを見る。あの子たちは、この感触を全身で楽しんでいるのだろう。

窓を閉める。作業に戻らないと。

密閉された大鍋の中で蒸されるハーブから出る水蒸気は、チューブを通って、一滴ずつ瓶に落ちていく。瓶はバケツの水に浸かっているので、水蒸気は冷やされて、液体に戻る。

時間を確認してから鍋の火を消し、自家製ハーブの精油で満たされた瓶を、バケツから引き上げた。

色や香りを確認する。ハチミツのような色。爽やかかつ、まろやかな香り。メリッサの精油が完成だ。用意していたラベルシールを瓶に貼って、ずらりと同じ瓶が並んでいる棚に置く。

さて、片付けは後回し。

棚から、いくつかの瓶を取り出す。その瓶を詰めた籠を抱え、隣の部屋に移った。

大きな机の上には、新品のビーカーや試験管、スポイトや調香に必要な薬品などが散乱している。私がエプロンでなく白衣を着ていたら、科学者の机にしか見えないだろう。

フーと息を細く吐く。久々の調香だ。緊張する。



調香師として、故郷から遠く離れた場所で足掻いてみたが、私はどうにも不器用過ぎた。嗅覚と心が疲弊し、パラパラと崩れていく恐怖に白旗を上げて、故郷の山奥の小さい貸家に移った。

庭でハーブを育てて加工して、ネットや市場で売る。手に入れた必要なだけのお金で、必要な物だけを買い、静かに暮らしてきた。このままでいよう。もうずっと、このままでいたい。穏やかに生きていられるなんて、最高の幸せじゃないか。

そう思っていたはずなのに、心身が落ち着いてくると、その穏やかさは息苦しい停滞に変わっていった。

机の引き出しからノートを取り出し、今日の実験計画を確認する。文字と数字を追いながらイスに座り、電源を入れた電子計量器の上に小さいビーカーを置いた。

ノートを脇に置いて、無水エタノールのボトルを開ける。スポイトで吸い出し、計量器が示す数字に注意しながら、ビーカーの中に投入する。準備完了。

籠に収まっている瓶の蓋を開けて、スポイトで少しだけ、吸い上げる。ビーカーに一滴ずつ落としながら、計量器の数字を睨む。

”人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける”

心の中で暗唱する。人の心の不安定さと対照的な、梅の花の香りの不変さを表現した、古の歌。

先週、物置を片付けていた時に偶然見つけた百人一首のカルタ。引っ越す時に捨てようか悩み、結局持ってきたものだった。偶然この和歌の札を手に取り、何度も読み返した時、停滞を打ち破るアイデアが閃いた。

百人一首それぞれのイメージに合わせた、100通りの香水を作ってみよう。

思い付いた瞬間から、頭の中で具体的な計画が決まっていった。昔の調香の実験ノートを引っ張り出して、百人一首香水のイメージと、組み合わせる精油の名前、配分量などを夢中になって書き込んだ。

片付けが終わってないことに気付いたのは、夕方遅く。



計画通りに、複数種類の精油を混ぜ合わせ終わった。最初の試作品の完成だ。試香用の細長い紙を取り出し、先端を曲げる。曲げた先端部分を香水に浸し、目を閉じて嗅ぐ。

梅の香りが風に乗って、通り抜けていく。その風を追う、雨を予感させる香り。梅の青々とした葉の上で小さく跳ねる、雨粒のような残香。

古の人々も、水のように形が変わりやすく、捉えどころのない「心」に翻弄されながら、不変の香りに癒されていたのだろう。数百年、千年経っても、それは変わらない。

目を開けて、ペンを取り出す。試香紙の上のほうに、日付と時刻を書き入れる。「テスト①」と書き込んだ後、その隣に花丸をつけた。



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水月suigetu
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