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パジャマオーケストラで再公演

周囲を見渡す。誰もいない。今なら。明日は休みだし。こっそり。少しだけ。

グランドピアノの蓋を、慎重に開ける。懐かしい、モノクロの隊列。ドレミファソラシド。右手で軽く、流れるように鍵盤を押す。懐かしい、優雅な音色。

座り直し、左手をセットして、息を吸い込んで、吐いて。指の動きとメロディを思い出して。いざ。


連日激務、残業の仕事からの引き際を考えながら、電車から降りた。真夜中の駅の改札口にのろのろと近づいた時。開けたスペースの隅に佇んでいる、巨大な楽器から目が離せなくなった。

ずっと気になりつつも通り過ぎていた、駅に設置されたグランドピアノ。弾きたい。無性に、白と黒の鍵盤に触れたくなった。


ショパンの別れの曲が始まる。特別好きな曲。正しいテンポは無視して、ゆっくり弾く。ここは誰もいない真夜中の駅だ。私好みにアレンジしてもいいだろう。

階段を上るように、高音域の鍵盤へと右手と左手が移動して。また、低い音へと静かに戻って。

緊張しやすくなければ、余裕を持って弾けるのに。今も、指揮棒を振っていたかもしれない。

数年前まで、本気で指揮者を目指していた。場数を踏めば、どうにかなると思っていたが、緊張しやすい質は変わらず。完璧だったはずの指揮が、本番で駄目になる。

ラストチャンスだったテスト本番でも、悔し涙を流した。トイレの個室で、ひっそりと事切れた夢だ。

激しく踊るようなパートを弾き終えて、再び最初の穏やかな旋律に戻る。また、階段を上がって。もうすぐ、別れの曲が終わる。

まだ手が小さかった頃に、どうしても綺麗に弾きたくて、毎日何時間も練習した。何かを惜しみながら、眠りに落ちていくような旋律の曲。

あまり長く、引き摺っていてはいけない。指揮者の夢の残響も、終わらせよう。


帰宅してすぐ、先週買った新しいパジャマを出した。シャワーを浴びた後、肌触りの良いコットンの布に包まれて、布団に収まり。想像通り、するすると眠りに落ちる。

すぐに、夢が始まった。



視界には、指揮棒を構えた自分の両腕。その奥で整然と並んだ様々な楽器と、その奏者たち。私は、なぜかパジャマ姿。後ろを向けば、無数の聴衆。

視線を戻せば、奏者たちとぶつかり合う目線。

掌が汗で湿る。最初の一振りにためらっていると、コントラバスの隣に、三味線が見えた。その横には、大きな三角形の楽器。ロシアの弦楽器のバラライカ。

右端から左端まで注意深く見渡すと、所々に、普通のオーケストラには混じり得ない、古今東西の楽器が混じっている。奏者は、それらの楽器を当然のように構えていて。

そして、指揮者だけパジャマ。何とも奇妙なオーケストラだ。笑いが込み上げてくる。

心を決めて、思い切り両腕を動かす。国際色豊かな音がバランスよく重なったハーモニーに、一瞬で包まれた。音は時々離れ離れになり、追いかけ合って、またゆったりと流れる音色の大河に戻る。

夢心地で指揮棒を振り続ける。不安と恐怖が全て、溶けて消えていく。無我の境地へ。



目が覚めた。

耳の奥に残る、美しい音の重なり。

今日も、別れの曲を弾きに行こう。あの駅のピアノで、弾こう。別れの曲が、夢の旋律が、ひっそりとまた鳴り始めた。


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水月suigetu
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