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引き出しユニバース

ほぼ無意識で袋を開けて、スパゲッティを2束取り出す。鍋に放り込んで、菜箸でお湯の中にしっかり沈めた。後はセロハンテープだ。袋にチャックが付いていなかった。テープで袋を留めないと。

ダイニングキッチンから自分の部屋にバタバタと移動する。小さい机の引き出しを開けて息を呑んだ。何も入っていなかった。というより真っ暗だった。一面の漆黒。

勢いよく引き出しを閉める。息を整えたから、そろそろともう一度開けてみた。漆黒の空間が見え始めて、また勢いよく閉めた。

とりあえず、スパゲッティだ。不可解な恐怖の空間は見なかったことにしてキッチンに戻った。


長年使っているシンプルな樫の木の小さなデスク。浅い引き出しが1つ付いている。一人暮らしを始めた時にリサイクルショップで一目惚れして買ったのだ。精神の健康を崩してから色々なものを失くして、姉の家に住まわせてもらっている今も愛用している。

同居前、”私のアパートは無限の宇宙じゃないから荷物はできるだけコンパクトにね”と姉から言われていたが、どうしてもこの机だけは手放せなかった。

私は清掃の夜勤バイトの前に、自分用の遅い昼食と姉の夕食(夜食?朝食?)を作る。とある怪しげな研究機関に勤めている姉は、ほぼ毎日、時空間の研究に勤しんで夜に帰ってくる。あまり顔を合わせないから同居している感覚が薄い。しかし姉妹仲に問題は無い、と思う。

今まで家計や家事の分担で喧嘩になったこともない。物置部屋を1人部屋として使わせてもらえているし。たまに顔を合わせれば、くだらない冗談の応酬が楽しめるし。居心地が良くて独り暮らしに戻れる気がしない。

ああ美味しそうなトマトクリームパスタが完成してしまった。そろそろ観念して、あの引き出しを開けなければ。


姉のデジカメと菜箸を片手に握り締め、息を吸って吐く。引き出しを慎重に開けた。わ、やっぱり真っ暗。菜箸を引き出しに入れてみる。どこまでも、どこまでも入っていく。引き出しの下を覗き込むが異常は無い。深さはせいぜい20cmくらいのはず。長い菜箸が垂直のまま収まるはずがない。

菜箸を引き抜いて机に置き、黒い空間に耳を向ける。無音だ。恐る恐る指先を入れてみると、ちょっとひんやりしていた。

ゆっくりと腕まで入れて手を軽く振ってみる。何もないようだ。今度はデジカメのレンズ越しに覗き込む。姉ご自慢の高倍率ズーム機能付きデジカメだ。何度かボタンを押し間違えたが、何とか操作できるようになった。

黒い空間の中には、小さい光の球がひしめいていた。意外とカラフルで賑やか。これはまさか、宇宙?楽しくなってきて、きょろきょろと見回していると、右端の奥で派手に輝く赤い球体を見つけた。その周囲を回る数個の球体。もしかして、これ太陽系惑星?水金地火木土天海……あの球体が地球なのだろうか?本当に青い。

「なーにやってんの」

「うわぁ!」

背中を強めに押されて、上半身がするりと引き出しの中に入ってしまった。これは、まずい。戻れないやつだ。

「ちょっ、なに、これ、どゆこと?!」

「戻して!足!引っ張って!早く!」


「いやー、機材トラブルで何も出来なくなっちゃって。帰されちゃったの。ちょっと驚かせよーっと思ってこっそりドア開けて入ったら、あんた引き出し開けて、なんかずっと探してるからさ。つい。ごめん」

座り込んだままゼェゼェと荒い息をし続ける。焦った。宇宙に頭から飲み込まれるところだった。

「こんな面白いことになってるとはね。早く帰ってこれて良かったー。どうなってるのこれ。きゃっほー!広い!ははは」

姉は躊躇せず引き出しの中に頭を突っ込んで大興奮している。よろよろと立ち上がり、姉にデジカメを渡した。

「ズームしたら、宇宙だった」

姉は不思議そうに私とデジカメを見比べてから、すぐにカメラで引き出しの中を覗いた。急に静かになった姉は、食い入るように宇宙を観察し始めた。

「……右側にあるの、太陽系惑星だよね?あの小さい地球にも陸地があって、このアパートがあって、私たちがいて。この引き出しがあるわけでしょ?その引き出しにも宇宙があって……ってことになるよね」

自分で言っていて頭が痛くなってきた。がばっと引き出しから顔を上げた姉は、つかつかと姉の部屋に戻り、また足早に戻って来た。片手に何か持っている。

「本当の宇宙だとしたら、そういうことになるね。フラクタルで無限で宇宙!ああ痺れる!机、ちょっとしばらく研究所で預かってもいい?」

「……いいけど。壊さないでよ」

「返すから。ちゃんと無事に返すから。お姉ちゃんを信じなさい。あとこれ、探してたんでしょ?」

姉の右手には小さいセロハンテープがあった。

「あ、そうそう。あれ、言ったっけ?」

「開いたまんまのスパゲッティの袋がキッチンに置いてあったからさ。そうかなーって。あの広い引き出しから見つけ出そうとしたら、一生かかっても見つからないだろうねぇ、こんなちっちゃいセロハンテープ」

「……ぷっはははっ!」

ちょっと考えてから、セロハンテープを捜索する宇宙船を想像して吹き出した。



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