![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132365700/rectangle_large_type_2_4a6f64b13c0f083d413a760904437774.jpeg?width=1200)
不器用とともに生きる
ねこっちです。今日は、今までうまく言葉にできなかったことが見えてきました。今日の記事にはそれを書いていこうと思います。
今日のテーマは、私の不器用さについてです。
不器用な私の具体例
工作
設計図を書いて、後は作るだけだ、という段階になって工作をすると、寸法が合わない、どういうことだと思って図面を見返してみます。すると、円環の外径と内径を取り違えていた、ということがありました。そのような時、思い付きの突貫工事で修正してしまうため、出来上がったものはガムテープでぎちぎちに固定されたハリボテになっていることが多いです。
また、電子工作においても、部品の向きや配線の長さを間違えていて完成品が大幅に変わってしまった、ということは日常茶飯事です。
数式の計算
朝、今日は何をしようかと思って目を覚まし、寝ぼけた目で朝食をとっていると、名案が閃き、急に冴えた顔になって紙に図や数式を書き、気づけばその日は計算に没頭して夕方になっていた、ということはよくあります。
しかし、翌日その計算を清書しようとすると、序盤で大きなミスに気づき、全て水の泡になった、ということが殆どです。今でも「良く思いついたな」と言えるような発見ができたことは少ないです。
ビートボックス
高校1年の時、口から楽器の音を出すことに憧れてビートボックスをやりました。そして、大学生になって始め、それが今でも続いています。しかし、Kスネアと呼ばれる技ができるようになったのが2022年の1月で、そこから技のレパートリーが増えません。Kスネアもいまだに「キッ!」というような汚い音しか出ません。
さらに冗長なビートしか刻めないため、ビートボックスをするたびに自分の下手さに恥ずかしくなってしまうことが多いです。
コミュニケーション
私は今まで「友達」をもったことがほとんどなく、さらに人の心もうまく分からないため、コミュニケーションが苦手です。
具体的には、言葉の表現が冗長だったり、細部が矛盾していたり、やけに古風だったり(どこかで聞いた古風な言い回しを使いまわしてしまっているため)、独自の意味で言葉を解釈してしまったりします。
また、ほかの人の心の動きを想像できないため、心の表現手段である「絵文字」や「顔文字」などの使い方が分からず、私の書く文章には(それがフランクなものであっても)絵文字は常に皆無です。
絵を描くこと
私の描く絵は、ぎこちなかったり中心がぶれたりしており、うまく書けません。書く時は事前にアタリをとることも心掛けていますが、書いている途中でそれも分からなくなってしまいます。
物語づくり
漫画のようなものを描くことがありますが、細部の設定が矛盾していたり、気づいたら他作品のパクリになっていたりし、今まで「これはいい!」というものが書けたことはほとんどありません。また、漫画の絵もぎこちないものであることが多いです。
運動
サッカーのリフティングは好きで何年もやっていますが、いまだに安定して10回出来たことがありません。足首の角度や力加減がどうしても分かりません。また、縄跳びで2重飛びが初めてできたのは昨年の5月のことでした。その後顎関節症が悪化して縄跳びもやめてしまいました(現在は顎関節症は治りました)。
不器用は治せない
分かっているのに治せない
数式の例が分かりやすいように、閃いたりやる気になったりしたときは、時間を忘れて数時間~数日間没頭してしまうのですが、それがぎこちないものであることをその時にどうしても気づけません。没頭していて視野が狭くなっており、時間だけでなく自分も忘れてしまっているからです。
また、私には不器用さを笑いや親しみに変える工夫もできず、不器用であるのに人間臭さもない、よくわからない生命体であることが多いです。
私には「こんな自分でも親しんでほしい・親しみたい」と思う心はあるのですが、それを表現する方法も分からず、表現しても古風であったり妙に大人びていたりし、文体も形式ばっているため、いつも「そんなつもりではないのに」ということが伝わってしまいます。中高時代はそういった経験が殆どでした。
奇跡的に、こうした私を理解してくれた友達が高校時代に一人だけいました。LINEでいつも敬語調の私が、無理してフランクな言葉をその人に書いた時に、「無理しなくていいよ!」というメッセージをくれた時はとても嬉しかったです。
悩み続けた
およそ自我が芽生え始めたころから、私は自分の不器用さに悩んできました。ある時は「出来損ないの火星人」と自分を呼び、またある時は「ただの真面目系クズなのではないか」と自分を責めたりし、いつも不器用な自分が嫌いでした。
分かっているのに治せず、さらにその不器用のせいで自分の思いすら伝えられないことが嫌でした。
今はどう思うか
今まで見てきたように、非常に不器用で困っている私ですが、最近は「不器用は治らないこと」を前提にして、そのうえで自分の生活を作っていけばよいと発想を変えました。
私は発達障害当事者なので、それを生かしたことを考えてみました。障害をもつ人は社会適応に際して多くの困難を抱えているので、それに見合った支援を考えることがあります。私で言えば生活の困難さを支援してもらうべく、家族や学校の先生方から支援を受けて生活しています。
そこで、私はこの不器用さも一種の障害のようなものだと考え、そのような自分ができることを増やせるように自分で自分を支援していこうと考えました。
今はこの考え方にたどり着いたばかりなので、まだ何をやってよいかわかりませんが、この視点をもつことだけでも未来は変わってくるような予感があります。
まとめ
かつては不器用な自分が非常に嫌いでしたが、今はそれほど嫌いではないように思います。どのように自分を支援していくのが良いか、また一つ試行錯誤できそうです。
自分が不器用であることを分かったことが、今日達成できたことでした。何か問題が分かった時の対策を考えるのは好きなので、ようやく「不器用であること」を自分の思考可能なフィールドに落とし込めたと今は思います。
ねこっちの記事はこれからも冗長で古風、絵文字も少なく形式ばっているかもしれません。そのような時は、「また不器用やっているな」と温かい目で見ていただけると嬉しいです。
以上です。最後までお読みくださり、ありがとうございました。
ねこっち