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てもくん病 ~文字に不快感を覚える不可思議な病~

 注意:「てもくん病」は正式な名前ではないです。私の体験に基づき、該当する症状を客観化するためにつけた(仮の)名前です。


はじめに

 皆さんのなかには、次のような経験をお持ちの方はいらっしゃいますか?

・特定の字を書く時にイライラする、力が抜ける
・ある文字を見ると気分が悪くなる、ムシャクシャする

 もし、このような経験をされた方がいらっしゃれば、私は安心します。なぜならば、このような状態に困っている人は私だけではないと知るからです

てもくん病について

 私の場合は、「く」「ん」というひらがな、および「~ても」というフレーズ、あるいは「ラ」「ブ」「プ」というカタカナにおいてこの症状がみられます。あまりにも困っていたうえに病名はないようなので、私はこの中で特にイライラする文字をとって「てもくん病」と名付けました。

 どういうことかというと、これらの文字を見る、あるいは書く時に、気分が悪くなってしまうのです。パソコンなどのタイピングで書く時はさほどイライラしないのですが、手書きの場合はイライラやら気分が悪いやらで耐えがたい苦痛に襲われます。

不快感の感覚

 このイライラや気分の悪さは、形容しがたいものがあり、「無性に腹が立つ」、という感じに近いです。と言えども、もう少し言葉にできる部分はあるので、そこを紹介します。

 不快感は、文字ごとに違います。私の場合は、おおよそ次のような感じです(★の数は不快の強さ、5段階):

・「く」(★★★★★)
・・・ただ前を向くことしかできない健気で弱い男の子になって、超つらい中で歯を食いしばって何かをひたすら我慢している感覚。

・「ん」(★★★)
・・・不完全な自分を思い知って苦しんでいる感覚。

・「ても」(★★)
・・・逆境で本当の自分を捨てて環境に適応するために無理をして成長しようとしている感覚。

・「ラ」(★★★)
・・・つらいのに無理をして明るくふるまう時の感覚。

・「ブ」、「プ」(★★★★)
・・・ひたすら恥ずかしい感覚。

てもくん病の考察

 ここではなぜ、特定の文字に対してこのような不快感が現れるのかを考察します。

 現在、もっとも確信に近いのは、「文字に人生の履歴(=自分史)が刻まれた」という説です。

 例えば、この中で最も発症が早かったのは「ブ」と「プ」だったのですが、これは小学生のころからすでに不快でした。

 このことについて、蛇足ですが、小学6年時に『薫風』(黛まどか)という児童文学が国語の教科書に載っており、それを毎日読み聞かせする宿題があったのですが、「くん『ぷ』う」を読めずに泣きじゃくった記憶があります・・・。

 これは恐らく、「ブ」と「プ」がいわゆる「おならの音」を連想させるからだと考えられます(下品な話で申し訳ありません)。「ブ」「プ」という文字を書くと、まるで自分がおならをしているような感覚になり、さらにそれは文字として残るので、「自分がおならをしたこと」がいつまでたっても残り、その文字を見るたびに「おならをしている自分」を写真で見ているかのような感覚になるのです。

 さらに言えば、人がその文字を読もうものならば・・・、そうです、人に「おなら」を見られてしまうも同然で、恥ずかしい限りなのです。恐らく、「ブ」や「プ」を書いた時の恥ずかしさは、その恥ずかしさを反映したものなのでしょう。

 「ブ」「プ」という文字に、「おなら」を通して恥ずかしさという体験が刻まれてしまったため、不快感が生じる、というわけですね。

 一方で、ひらがなの場合(「ぶ」や「ぷ」)は場合によってはセーフなのです。それはひらがなの場合、「つなげ字」で書けるからです。つなげ字には、古風なイメージがあり、その古風なイメージが前述の「恥ずかしさ」を打ち消すので、「ひらがな」かつ「つなげ字」で「ぶ」「ぷ」を書けば、セーフだということです。


つなげ字の場合(左)と、そうでない場合(右)の例

 その証拠に、私はひらがなであっても「つなげ字でない書き方」だとカタカナ同様、拒絶反応を起こしてしまいます。


 同様のことを他の文字で考えると、確かに心当たりがあります。

 例えば「ても」には、逆接の意味があります。そして、特に思春期のころは、子どもから大人になる中で理想を諦めて現実に適応していくことが往々にしてあり、その中で「○○じゃなくても」と考えることがあります。

 例えば・・・、

 私の場合も、「天才主義」や「子ども至上主義」という形でそうした葛藤を経験していました。

 つまり、「ても」という言葉にはそうした私の人生の葛藤がまざまざと練り込まれてしまったのです。


 その点、分かり難いのが「ラ」「く」「ん」です。まず、比較的不快感の少ない「ラ」と「ん」から始めます。

 「ラ」は、私の発達特性と関連しています。私は、愛を理解することが長い間できずにおり、母や父から愛されることはあったものの、他者を愛するという感覚が分からないことが多かったです(今は、スローペースで理解しつつありますが、まだ「体得」にはほど遠いです)。

 まだ愛を理解できていなかった頃の認知として、「愛は自己犠牲だ」というものがありました。つまり、自分の身をなげうってでも「愛する人」を助けなければならない、というイメージが強かったです。これが転じて、「愛する人」の前では、つらい時も笑っていなければならない、というような「愛についての誤解」が成熟したのでした。

 これが「ラ」という言葉につながったというのは・・・。そうです、「ラブ(love、愛)」という言葉を通して刻まれてしまったのです。つまり、「ラブ」を仲介して、「ラ」という文字に「愛についての誤解」が刻まれ、それが上述の不快感になってしまった、ということです。

 次に「ん」ですが、これは「すみません」「申し訳ございません」というときの自責の念が正体だと思われます。責任感の強かった私は、子どものころからこの「すみません」という言葉を多用しており、なおかつ厳しい中高一貫校で謝ることばかりであった中学時代の体験も相まって、「ん」という言葉に、「すみません」や「申し訳ございません」の「ん」が入ってしまったのでしょう。


 最後に、一番不快感の強い文字である「く」について。

 これは「ても」と似ているのですが、思春期~青年期のころの苦しみと葛藤が背後にあるのだろうと思われます。加えて、「泣くこと」に対する強烈な嫌悪感も後押ししているのだと思います。

 責任感が強く内気で、かつ生真面目で友人もいなかった私は、中学時に先生に怒られる中で、「強くなれ」としばしばいわれていました。

 それがどういうことかわからなかった私は、本気で頑張っているのになぜか「弱い」と評価される自分がいつも嫌いでした。

 また、抑うつで精神科の先生に苦しみを相談していたころは、漢字も書けないほど抑うつにさいなまれており、しばしば「くるしいです」とひらがなで書いて、相談していました。


 恐らくですが、「く」を手書きしたり、他者が書いた「く」を読んだりする時に現れる強烈な不快感は、「強くなれ」の「く」、そして「くるしい」の「く」がもつ苦しみと劣等感、葛藤や嫌悪感だったのでしょう。

 男の子になって歯を食いしばっている、という先述した謎の不快感は、「強くなれ」と言ってくる「先生」に対して「男の子」であった当時の自分を指しているのだと思います。

 大きな葛藤の末到達する「成長」には、「強くなる」のほかには、「逞しくなる」「人として丸くなる」などがあります。いずれも、「強い」「逞しい」「丸い」というその言葉の主たる内容の隣に、「く」というひらがながあります。文字で書いた時のこの「近さ」も、「く」の不快感を大きくしている要因であると考えられます。

 さらに、私には泣くと気持ち悪くなってしまう謎の特性があり、「泣く」の「く」もまた、この「く」の不快感に関わっているのだと思います。

 「ても」「ん」などに比べて、「く」の不快感が最も大きいのは、「く」に刻まれた苦しみの履歴が段違いに大きいことが理由なのでしょう。

 標語的に言えば、私は、「く」とともに苦しみながら人生を生き抜いてきたということです(結果として「く」が不快になってしまうのは残念ですが・・・)。


蛇足:今回考察した内容は、学術的には「音象徴」という現象に近いものと思われます。

音象徴(おんしょうちょう、語音象徴、英語: Sound symbolism)は、音そのものがある特定のイメージを喚起する事象を指す。

「音象徴」 |Wikipedia

最後に

 今回は、長い間悩んできた「てもくん病」について紹介・考察してみました。繰り返しになりますが、この悩みが私だけでないとすれば、私は安心します。そのため、この記事を読まれた方の中で、私も、という方や、私はこの字が苦手、という方がいらっしゃれば、コメントにてご一報下さい

 今日はこの悩みをnoteで共有できたことが、一番の達成事項でした。最後までお読みいただき、ありがとうございました!


    2024年12月21日・Nekotchi

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