カマキリに食べられたササキリを見て思ったこと
ねこっちです。最近はやや重めのうつが到来し、フラッシュバックや幻聴などに苦しんでいます。そのような中、今日は外に出て庭を歩きました。その時に見た光景と、それに関して思ったことを書こうと思います。
(冒頭の画像は、久々にフリーハンドで描いたカマキリの絵です。子どものころは、このような絵をよく描いていました。)
カマキリがササキリを食べていた
庭に出ると、母が草刈りをしていました。その付近を歩いていると、草の中に濃い緑色の動くものを見つけました。
それはカマキリでした。しかし、何か様子が違います。手元をよく見ると、何やら虫を捕まえてそれを食べていました。
食べられていたのは、「ササキリ」という虫でした。カマキリは尾部から食べ始めていたようだったので、ササキリは食べられながらまだ動いていました。足をじたばたとさせ、触角を激しく動かしていました。
しばらく観察していると、数分後にカマキリはついにササキリを食べきってしまいました。近くには、ササキリの足の残骸などが落ちていました。
このような光景は、虫好きの私は子どものころに何百回と見てきました。しかし、今日の私はこの光景を見て、そのころとは違ったことを思いました。
厳しい自然界
今日食べられたササキリにも、何日もの日々を越えて迎えた今日があったと思います。ササキリとしてこの地球に生まれ落ち、イネ科の葉を食べて大きくなり、脱皮を繰り返し、そして先日の大雨のような天気の変化にも耐え、そうして生きていた今日、カマキリに食べられてしまった、そう思うと浮かび上がってくるのは、いくら頑張って生きていても常に「食う・食われる」の世界で死と隣り合わせな自然の厳しさです。子どものころは、時に面白がってわざとカマキリの前にバッタなどを差し出していた私でしたが、今日のこのササキリの死には、ある種の重さを感じました。
自然界は厳しい。漠然とそう思いました。
人間という不思議な動物
そう考えると、人間界は安全なのだなと、ふと思いました。受験に落ちても死ぬわけでもないし、シートベルトのし忘れなどで警察に捕まっても人生が終わるわけでもない。食う・食われるの自然界とは違い、人間界(少なくとも私の住む日本)では、個人の命は高度に保証されている、そう感じました。
それは知能と感情を持つ人間という生き物ゆえの特徴なのでしょう。確かに悩みやつらいことは多いですが、カマキリとササキリの住む自然界のことを思えば、ここは安全な世界と言えるでしょう。
そしてもう少しこの思考を進めると、「なるほど自然はよくできているな」と思いました。カマキリやササキリの住む自然界に住む虫や植物などには、「考える」「思う」ということがないように見えます。もしササキリに、人間のように「考える」という能力があったとしたら、この弱肉強食の自然界をどのように思うことでしょうか。カマキリなどに簡単に食べられてしまうササキリのアイデンティティとは、一体どのようなものなのでしょうか。ササキリたちがこうしたことに悩まず、今日も庭を跳ねて元気に生きているのは、ササキリに感情がないからでしょう。もし、食う・食われるの自然界の住民に感情があったら、精神疾患や引きこもりの程度は人間界の比ではないかもしれません。自然が自然として営まれているのは、自然界の住民に知能や感情がないからなのだと思いました。
バッタやササキリには、飛び跳ねる能力がある。カマキリには、鋭い鎌状の前足がある。鳥には飛行能力がある。生物には、それぞれ違った特徴があります。その視点で人間を見ると、なるほど、人間には知能と感情がある、と思いました。そして、知能と感情を持つ人間は、およそ1~2m程度の体長をもち、およその捕食者には狙われない大きさを持つほか、道具を使ったり住居に住んだりし、安全を確保することができる。
感情のない(人間以外の)生物が弱肉強食を営み、感情のある人間はそのような世界にはいない一方、感情を持つがゆえに様々なことに悩むさまを見ると、人間を含むすべての自然界がこうしてバランスをとっているのだなと感心しました。人間を含むどの生物も、特別ではなく、一長一短がある地球の住民なのでしょう。
今日は、カマキリに食べられたササキリを見てこのようなことを思いました。
最後に一言
恐らくうつでない健康な私であれば、今日のこのことは「カマキリがいた。可愛かった」で終わっていたと思います。日常のちょっとした光景で、ここまで様々に考えてしまうのは、心理学でいう「抑うつリアリズム理論」(注)の具体例なのかもしれません。
(注)「抑うつリアリズム理論」・・・抑うつの人は、そうでない人に比べて世界がより正確に見えている、と考える理論。
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