note経験録ー自分の物語の回復ー
noteを書き始めてからまだ数日だが、思ったことがある。
日記など続けようと思ってもなかなか続かなかった私だが、noteは多少続く予感がある。
そして、そのことには大きな意味がありそうだ。
私以外でも、自分の勉強記録・読書記録として発信している人は多い。
なぜそうするのか、ある意味で自分の目的のために記録をつけるのだから、noteである意味は一見なさそうだ。
だが、ある。それが継続性だ。
人に読まれることを意識することで、良いものを書こうと自分の生活を見る視点を得るし、カッコ悪いことをしたくないから、有言実行につながる。
けど、そこが言いたいことではない。
その継続性による思わぬ副産物があったという話だ。
思わぬ副産物:自分の物語
さきほど、読まれることを意識することで、自分の生活を見つめる視点を得ると言ったが、そのことで、自分は何を考えているのか、どうなりたいのか、など、自分を見つめることになる。
わたしたちは、大人になる過程で、そうした自分中心的な視点を失ってきたのではないか。
大人になるとは、他者の気持ちを想像できるということである。他者の立場になって考え、社会に価値を提供できることである。
それが仮に、自己の他者への投影でしかないにしても、他者の動きも勘定に入れて行動しなければならない。
それは良い大人であると私は思う。
けれどその結果、自己中心的な、私はこうなりたい!これがよかったのに!こんなのも楽しそう!といった企みを持ちずらくなっているのではないか。
私が私に着目してあげないと、どうしても見失ってしまうものがある気がする。
noteはそうした自己への着目を促してくれる。
そして、自分が主人公の、こどもの時普通に持っていた自分だけの物語を生きることができるのではないか。
こどものままではその夢の実現は厳しいが、客観性を持ち、他者のことを考えられるようになった大人たちは、今こそ自分を主人公とした自分だけの物語を生きることで、最大の自己実現と社会貢献ができるのではないか。
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