≪個別企業の歴史≫ コマツの100年
以前、建設機械業界を調査して興味を持った会社が「コマツ」でした。
コマツの変遷をダイジェストで記載しようと思います(コマツの社史から抜粋)
【炭鉱経営からのスタート】
創業者の竹内氏の始まりは日立製作所のように炭鉱経営からでした。長崎~佐賀と炭鉱を経営し、石川県小松市の銅山開拓を行います。
当時の機械は全て輸入品だったので「工業を発展させずして国家の発展はない」と機械の元になる鋼材研究と工作機械(特にプレス機)の内製に取り組みます(現在、日立製作所も調べているのですがとても似ています)
竹内氏は早稲田大学が理工学部を開設する際の資金提供をしたようで学部創設に大きく寄与した人としても有名です。
1931年農水省の要請で農業トラクターのエンジンに着手。
7年後に試作サンプルを完成させます。このエンジン開発というのが本当に肝でエンジンを輸入ではなく内製出来る技術をここで身に付けます。
1941年には国内初めてのブルドーザーを完成させました。
【大ピンチから完成品の建設機械会社に】
しかし、砲弾や各種パーツなど完成した建設機械会社としての骨格はまだまだだったそうです。1961年、建設機械業界の巨人 キャタピラー社が米国から突如進出。三菱重工との合弁を作るというのです。当時の政府は国内企業の品質向上を待っていっては単独進出をされてしまう。ならば合弁で手を打ちたいという狙いだったそうです。
コマツはこの黒船に対してA対策と名付けた品質の作りこみを行います。
大学からも専門家を招聘し、96台の試作品を現場に投入。時間経過と共にどのパーツに不具合が出るか?等を徹底的に調べ上げたそうです。
簡単に記載していますが、「96台の製品を個別に後追いする」って本当にすごい事だと思います。現在のハードウエアベンチャー企業ではここまでやれない気がします。
【満を持しての世界進出】
A対策で作り上げた品質を武器に世界進出と多角化に臨みます。
半導体に使われるシリコン等、異分野にも積極参入しました。
坂根元社長は「河合社長はキャタピラーに負けても生きて行けるように
建設機械以外の道を作っていたのではないか」と述懐しています。
本業の建設機械は、B対策というスローガンで輸出を拡大しますが
貿易摩擦により現地生産へ舵を切ります。特に中国への進出は早く、当時の周恩来主席からは「中国は最初に井戸を掘った人を忘れない。それがコマツである」というコメントを残しています。
建設機械だけでなく、鉱山事業にも進出をしました。大きな赤字の連続でしたが現地の担当者は「技術的に開発できても、その後のビジネスをどうするかが重要で技術があればなんとかなるというのは誤り、いったん辞めたら永遠に参入できない」と事業を継続しました。
【モーレツ企業からの変革】
昭和の日本を代表する1社としてがむしゃらに働き強い会社を目指すだけではなく、強く良い会社になると「開かれた会社」「共存共栄」「社会貢献」を掲げ、90年代委員会という形で業績だけに捕らわれない視点も取締役会にいれていきます。またこれはインターナショナルアドバイザーボードにも繋がり、日本人だけの国際化だけではなく、国際ビジネスのプロの視点を入れた会社の視座を作り上げていくことになります。
そんなコマツも2002年連結損失800億円という赤字を出すことになりました。エレクトロニクス事業の赤字を本業が補填できない規模になったためです。広げた扇を整理するために子会社の整理、早期退職が行われました。
この時に「世界No1か2の事業をやる」と決めそれらを「ダントツ商品」として磨きこむことになります。No.1なダントツ商品 なんだか日本語と英語がまじりあった面白いキーワードです。
現在は建設機械を「作って売る」会社だけでなく、顧客の財務状況に合わせたリースやKOMTRAXというセンシングシステムにより、機械の資産価値状況が分かるなど「顧客課題の為に自社の建設機械がどう使われるべきか」というソリューションカンパニーに変革しつつあります。
だいぶ急ぎ足で書きましたが、私なりの視点は4点。
1)創業時から「素形材技術」「組み込み技術」を磨きこむ個別技術を保有
2)黒船襲来と共に「個の技術」を「インテグラルな商品」に磨きこむ
3)事業の発散と「会社の役割」の模索
4)「明確な戦略(世界No.1ダントツ商品)」と「物売りからの進化」
とても面白い歴史だなと思いました。