1.旅立ちの夜間飛行(後編)【キッスで解けない呪いもあって!】
「ぎゃーっ! 待って、ちょっと待って!!」
このままではキスしそうになる。
この男とキスするのは嫌だ。断じて嫌だ。でもそれより……ってもうキスしそうじゃん!
と、その時だった。
少年が逃げ下がって寄りかかっていたジェットヘリのドアが、開いた。
あり得ない程いとも簡単に。
次の瞬間、少年の体は紺碧の空の中、緑に輝くオーロラのカーテンに包まれていた。
ヘリコプターが警報を鳴らし機体の体勢を整えようとする中、なんとかドアに捕まっている男が見える。どうやら落ちないで済んだらしい。
手摺に捕まって手を伸ばすタカフミも見える。でも、届かない。
「ーーーー!!!」
名前を呼ばれた気がした。
だがそれが聞こえる事はなく、体にヒュッと重力を感じ、思わず目を閉じ再び開いた時にはーー少年は雪の上に立っていた。
そこはいつもの研究所の雪原だった。
広大な研究所の敷地を取り囲むように引かれた、青白く光る巨大なアウロラの守護陣の中で、少年はいつものようにペンギン達とオーロラを眺めている。ペンギン達は少年の周りでヨチヨチと歩き回ったり、毛繕いしたり寛いでいる。
この中にいればもう安全だ。
そう思うのに、何故か落ち着かない。なぜ?
そうだ、この本を届けないといけないからだ。
いつの間にか少年の手の上には愛用のフィドルーーバイオリンーーの革ケースが置かれていた。そしてケースの背面には、今や全世界が報じているあの眠り姫の黙示録が、ケルト模様の縫い取りが施された見事な銀糸の帯でぐるぐると巻きつけられている。タカフミ王子がしていた作業はこれだったらしい。
よく見ると帯の合間から、剥き出しとなったページに描かれた挿絵が覗いている。百年の呪いから目覚めた眠り姫に王子がキスをする、あの有名なシーンだ。
しかし少年の手は自ずと、その挿絵の下に掛かった帯を捲り上げる。挿絵の下には落書きのような……いや、実際落書きであろう、一本の大きな矢が描かれていた。
「3年間、君は研究所に引かれたアウロラの守護陣に護られてた。でも今日から君を護るのはこの黙示録だ」
なんとか体制を立て直したヘリの機内。
タカフミは座席に寝かせられた少年のそばに、黙示録を括り付けたフィドルを置き、話しかけていた。
「いいんですか、こんな奴に持たせて? 今や世界中がこの本を狙ってますよ。危険すぎます。こんな、こんな……呪いにかかったような……俺はあの時一体……?」
「……これは、彼の物だからね」
理解不能な現象を体験し困惑する男を制して、タカフミは少年に語りかけていた。
「急に君を引っ張り出して悪いと思ってる。危険なのも分かってる。でもこれはチャンスなんだ。眠りの呪いで……。いや、とにかく今は君だけが頼りだ。眠り姫の村を見つけられるのは君だけなんだーー」
遠くでタカフミの声が聞こえる気がしたが、少年の耳には可愛らしい女の子の声が聞こえていた。
『大きくなったら見つけてね』
それは少年に黙示録を渡した人物。この落書きを描いた張本人、小さな眠り姫の声だった。緑のオーロラの帯が渦巻く不思議な部屋で、あの日少女はからかい半分、少年をこう呼んだ。
ちょうど今タカフミが彼を呼んだように。
「『オージ』」
ふと気づけば周りにいたペンギン達も守護陣も、薄っすらと消えかけている。
「待って」と言う代わりに、少年の口から日本の挨拶がこぼれ出た。
「さよなら」
それがどんな意味を持つのか、そしてそれを聞いたタカフミがふっと口端を持ち上げた事を知らないまま、こうして少年の旅は始まった。
ジェット機の爆音と、加速による「ひぃぃぃ! 今度こそ死ぬっ!」という悲鳴をオーロラの空に響かせながら。
それから11時間後ーー。
・・・・・
イースター当日の気怠い春の午後。
帰宅ラッシュにはまだ早いが、東京駅の構内はワッフルを焼く甘い匂い、土産物屋の買い物客、構内の大型モニターのニュースに足を止める人々やホームへ向かう人々の喧騒と熱気で溢れ、取り立ててイースターのイベント感があるわけでもないいつもの日常が繰り広げられていた。
ある一角を除いては。
「す、すみません、あ、あの、通して……あ、すみません、すみません! そのメープルワッフル20個入り、僕です!」
黒山の人だかりはチビにとって天敵だ。全く前が見えない。しかも、小さな体に背負った古めかしい革のバイオリンケースが人混みに引っかかるわ、トレードマークの黒縁メガネを落としそうになるわ散々だ。だが、
「なんだって今日に限って過去一混んでるんだよっ!」
と、心の悪態をダダ漏らしながら、王司時生がようやく黒山の人だかりを抜けた先には――
「うわぁぁぁぁぁ……!」
そこには極寒の南極の地で3年間、夢にまで見た光景があった。
大きな卵を護る2羽の皇帝ペンギンの紋章。《SAKAINO waffle》と金文字で掲げられた天鵞絨色の看板。背の高い金縁のショウケースの中で、キラキラと甘い輝きを放つメープルワッフル達ーー!
それら全てがイースターエッグで可愛く飾り付けられ、そこはまるでお伽話のお菓子の家を思わせる夢のような空間だった。
そして今まさに、ペンギン紋章の刷られたホカホカの紙袋を、背中のバイオリンに邪魔されつつも、背伸びをしながらショウケース越しにうやうやしく受け取った瞬間、
『オージ、急いで!! 早く見つけて!!!』
時生の右耳がワイヤレスイヤホン越しの女子高生に怒鳴り上げられ、一気に現実に引き戻された。
「うわっ、ははは、はいっっっ!!!」