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15.名も無きマダム【連載小説・キッスで解けない呪いもあって!】
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「オージとキスしちゃダメッ!!」
まるで駄々をこねる子供の様な楓のその言葉に
「えっ?」と時生。
「えっ?」と楓。
「あら、ヤキモチかしら?」クスリとマダム。
すると今度はその言葉に、「えっ!?」と真っ赤になった時生が、眼鏡を掛けてないのも忘れて思わず吊るされたまま楓の顔を見上げた。が、
「な、な、ナニ言って――ち、違うからっ!」
同じく真っ赤になった楓からすぐさま床に落とされた。ゴンッと鈍い音がしてまあまあ痛かったが、まあある意味助かったと言える。とりあえず目を見られずに済んだ。
「いい? マダムは私の大大叔父様の婚約者なんだから、他の誰かとキスするなんてこの酒井屋楓が許さないって言う意味であって――て、あれ? マダム、呪いにかかってないの?」
「あら、なんの呪いかしら?」
「オージの緑の目には『その瞳を見た者はキスせずにはいられなくなる呪い』がかけられてるって――」
そんなやり取りを尻目に時生がようやく、マダムに戯れついているポワロから取り返した眼鏡をカチャリと掛けてホッと一息ついたのも束の間、振り返ると楓から物凄い圧の疑いの眼差しを受けていた。あわてて
「う、嘘じゃないですって! 自慢じゃないですけど、この眼鏡をとって僕の目をみた人、ええと、クラスメイトの村上君に、道でぶつかったおじさん、南極でニュースキャスターにもされそうになったし、ジェットヘリでも……まあほとんど男ですけど……ってともかく! みんな、みーんな! 呪いにかかって僕にキスしようとしたんです!」
そう早口で説明したものの
「なーんだ、やっぱキスの呪いなんて嘘じゃん。オージ、お前マジ変わってるな。マダム、お腹すいたー。パーティーの準備出来てる?」
「いやだから、嘘じゃなくて……」
その言葉は入って来た颯太や涼華、タカフミを取り囲んだ賑やかな村人達に遮られてしまった。
――ただ、例外はいるけど。
彼らにワイワイと囲まれカフェの奥に行ってしまったマダムを目で追いながら、時生はいつの間にか脳内ペンギン達が広げた記憶を辿っていた。
それは呪いにかかった15歳のイースターの日。
記憶を無くし道に倒れていた時生は病院に担ぎ込まれ、目覚めた時そこには――10歳の時に失踪したはずの母がいた。
5年経っているのに母は微塵も変わっていなかった。
相変わらず、恐ろしく美しい。
時生と同じ緑の瞳、緩やかに波打つボブヘアの黒髪に、陶器のような白い肌――。
その母がマダムと同じ様に時生の頬に手を当て、小首を傾げながらじっと目を覗き込んで、マダムが囁いたのと同じ様にこう言ったのだ。
『面白い呪いをかけたのね』
そうしてまだ意識が朦朧としている時生に例の黒縁眼鏡を掛けると、『これがあなたを守ってくれるわ』と言い置いて、そのまま姿を現すことはなかった。
あの時、母は呪いにかからなかった。
そう。姿形も言葉も呪いにかからない事までも、マダムは何から何まで母と同じだ。だが、
――母さんじゃない。
それは時生にとって、見た瞬間から明らかだった。
母は常に見えない境界線を引いていた。
誰にも――時生でさえも――超えることの出来ない線。その線の向こうの母は、優しくも遠い存在であり、母が失踪した時も、時生は子供心に『ああ、やっぱりな』と思ったものだ。ちなみに父は大号泣だった。
片やマダムはと言えば、一瞬でこちらの心に詰め寄って来た。あれは天性のもの、要はフレンドリーで、よく見れば顔立ちも母に似ているが、美しいと言うより可愛い感じだ。
それに年齢が若い。多分25、6歳だろうが――
「オージ、私達も行こ。もうお腹ペッコペコ」
「うわっ! うわっ!? んぎゃっ!?」
1度目の「うわっ」は急に呼びかけられたから。
2度目の「うわっ!?」はいつの間にか楓に腕を組まれていたから。日本人なのにこのフレンドリーさ。イギリス育ちのシャイな時生には刺激が強すぎる。
3度目の「んぎゃっ!?」は、お尻をフリフリ、いきなりピョーンと飛び上がったポワロに頭を踏み台にされた衝撃のせいだ。
「ポワロ! なにする――」
だが、ポワロを叱ろうと上を見上げた時生は言葉を無くした。
入り口ホールから二階へと続く大階段の吹き抜けホール。ポワロはその大階段の踊り場にちょこんと座っていた。そのペンギン猫の後ろに聳え立っていたのだ
「氷河だ……」
まさに、階段ホールの壁は氷河だった。
いや、本物のわけはないとは思うが、壁からはひんやりとした冷気が流れ、上部の円窓から入る日差しを受けて、氷の様にキラキラと青白く煌めいている。そしてそこには
「あ、あのペンギン!?」
メトロで見たのと同じ、味のあるタッチのペンギン達が何百羽も描かれていたから驚きだ。氷河から海に飛び込んだり、トボガンで滑っていたり、一列になってヨチヨチと歩いていたりとまあ賑やかだが、どう見ても動いてはいない。
だが代わりに背中のバイオリンケース、というか背中に引っ付いた黙示録がガタガタっと動いた気がして、時生はギョッとした。が、腕を組んだまま一緒に見上げていた楓の
「この氷河の壁はね、マダムのお父様がマダムの為に、もんのすごーい財力で南極から運ばせてここに眠らせたの――百年前にね!」
その言葉にバイオリンケースを下そうとしていた手が止まる。
「え、これ本物の南極の氷河なんですか!? いやいやそれより、百年前って……マダムって一体何者なんです!?」
「……知りたい?」
「え? そ、それはもちろん……」
「そんなにマダムの事が気になる?」
と、それは突然降ってきた。
ちょっと頬を膨らませ、ヤキモチを焼いたような金色に爆ぜる琥珀の瞳が時生の目の前に現れ、
「えっ、いや、別に、そうじゃなくて……」
時生の心臓は再び跳ね上がる。
もしかして、ヤキモチを焼かれてるのか?
そう思うと胸がキュンとなったのも束の間、
「じゃあ今から当てに行こう!」
楓と組んだ腕に思いっきり引っ張られ、人でごった返したカフェスペースを駆け抜けると、気づけば時生はカフェの奥にあるバーラウンジのカウンター席、カウンターに立つマダムの目の前に座っていた。
艶やかなチェリー材のカウンターに据えられた、背の高い革張りのスツールになんとか座りながら、時生はさっきの楓の話を聞いたせいか、ついつい探る様にマダムを見てしまう。確かにオリエンタルな顔立ちでミステリアスではあるが、どう見ても百歳越えには見えない。
だが、母だとしたら――。
という時生の考察は、楓が今度は時生の両手をギュッつかんだ事で中断された。ああ、もう、ホント心臓に悪い!
「こ、今度はなんです!?」
「いいからカウンターの上に両手を出して! それからこうやって……パンパン、ドン! パンパン、ドン! 両手を2回叩いてから、カウンターを両手で叩くの。ほら、早く、やってオージ!」
「え、え、こ、こうですか?」
「うわ、オージ、ヘッタクソ!」
「なっ……僕は打楽器は専門外なんです!」
するとそこへ涼華が颯太より一瞬早く、時生の隣の席へ座ると同じ様に手を叩き出した。
「こうですわ、オージ。パンパン、トン! 楓、今から今日の分の名前当てをしますの?」
「おい、涼華代われよ! お前昨日やっただろ」
「名前当て?」
「颯太うるさい! そうよオージ。マダムの名前を当てるの。今日は『K』がつく名前ね」
「え? みなさんマダムの名前を知らないんですか?」
すると驚いた事に、マダムはクスクスと笑いこう言ったのだ。
「その通り、皆私の名を知らないわ、オージ。そしてね、私も私の名前を知らないの」
「え?」
と、時生の驚きをよそに、涼華が手拍子に合わせて歌い出す。
『なーんとなんと、名前はなんと』
そして
『お前の名前は――クリスティン!』
「――違うわ」
小首を傾げ緑の瞳を奥を沈ませてはいるが、一瞬で答えるマダム。
トム・ティット・トットだ――。
時生は唖然とした。
それはそうだろう。突然目の前で、イギリス民話トム・ティット・トットの悪魔の名前当てを、日本の高校生が真面目におっ始めたのだ。すると今度は楓が
『キティ!』
「――違うわね」
これも躊躇なく答えるマダム。
するとカウンターの皆んなの視線が集まり、気づけば時生の口から母の名前が出ていた。
『薫子』
その時初めてマダムの緑の瞳が光を帯び、周りのみんなが息を飲んだ。