3.闇に蠢くもの【連載小説・キッスで解けない呪いもあって!】
ーーなんだ、コレ? 真っ暗で何も見えない。
時生の脳裏に停電という言葉が過ろうとした。が、違う。
その闇はとにかく黒だった。一筋の光さえ入る事を許さず、それ故に何物も存在している事がわからない。だがその闇の中にーー
何か、いる。
時生がそう感じた瞬間、
「ミヅゲダ」
濁った貼り付くような声を発して、ドロリと蠢く黒い闇が頭の中から身体へヌタヌタと這ってゆき、全身が総毛立った。
時生の全てが逃げろと告げている。
それなのに指一本動かすことが出来ない。
その黒は、ゆっくりと、それでいてギラギラとした餓鬼のように、身体中の感覚を飲み込み奪っていく。光はもとより、音も、匂いさえーー。
時生は本能的に腕に抱えていたはずの20個のワッフルの匂いを探し求め、息を吸おうとした。だか吸っても吸っても空気が肺に入ってこない。と言うより、吸っている感覚が、ない。
ーーいき、が、できないっ…!?
そこからはパニックだった。
込み上げる息苦しさからもがこうとしたが、手足がどこにあるのかわからない。自分が存在しているかどうかすらわからない。それなのに息を吸えない苦しさだけははっきりと感じる。
誰か助けて! そう叫びたいのにそれも出来ず、まるで暗い海の底に一人、引き摺り込まれて行く様な恐怖。
ーーもしこのまま、死ぬこともなく、一人ぼっちで永遠に苦しみ続ける事になったら……。
それは時生にとって人生最悪のシナリオであり、その思考に囚われ、さらにパニックになりかけた時だった。
『……もう、わかったってば、わーかったって! 2人してそんなに怒らないでよ! あー、えーと、オージ聞いてる?』
絶望しかないねっとりと蠢く闇の中に、突如眠り姫のぶっきら棒な声が響き渡った。と思ったら、
『アー、アー、コホン……。エー、サッキハ、チビッテイッテ、ゴメンナサイ』
ーー……ブッ!!
あまりに棒読みが過ぎる彼女の声に、こんな状況にも関わらず時生は思わず吹き出しそうになった。すると、それに反応してビクリと動いたものがある。
指だ……手の指が動いた!
闇の中に差した微かな光。
時生は必死で、自分の中に響く眠り姫の声を頼りに、指先を感じようとした。すると、指先になにか触れている。
これは……バイオリンケースの革の感触!
不意に記憶の中の小さな女の子の声が蘇る。
『これはね、おまじないだよ。境師の守り矢。オージを境で守ってくれるからね。だから、オージはこの本をハ……ハダミ、ハナサズ? 持っておくんだよ』
彼女はそう言ってデカデカと一本の矢を羽ペンで描いた。半分に引き裂かれた『眠り姫の黙示録』の剥き出しになった頁に。
そしてそのお守りが描かれた黙示録は、今、時生が持っていた。背負った時肌身離さずくっつく様、バイオリンケースの背面に括り付けて。
『あのねオージ、もちろん呪いを解くのは王子様だけど……けど! とにかく今はオージだけが頼りなの。お願いオージ、ボッチ村を見つけて!』
イヤホンから時生の中に響き渡る眠り姫の声が、記憶の中の少女の声と重なった。
《オージ、大きくなったら見つけてね!》
指の感覚が分かるのは、声がしている間だけ。
時生は必死で指を動かした。
と、指先に感じたのは、古い本特有のカサついた紙の柔らかさーー。
再びドンッという衝撃と共に、時生は人混みの床にいた。
カハッと空咳の後、久しぶりの酸素にゴホゴホッと咽せ返る。咳き込みながら周りを見回したが、時生を不審そうに見る人が数人いるだけで、何かが起こった形跡はない。
力が抜けて下を見ると、時生の右手中指はまだ震えながらもしっかりと、ぶきっちょな線の境矢を押さえ付けていた。それはちょうど王子が眠り姫にキスをする、かの有名なシーンの挿絵の頁ーー
ーー眠り姫って……あの子……、いや、それより、あの黒いのは……、あれが女王が言ってたーー
そうして時生がまとまらない思考でふらつく体を起こそうとした時だった、不意に誰かに腕を掴まれグイと引き上げられた。