【声劇台本】どこにでもある話【約6000文字】

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猫縞レイ
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以下本文


 :そこは鳥籠と呼ぶには緩くなく、牢獄と呼ぶには些か誇張されている。そんな場所に私はいた。
 :人は皆、何かの箱の中に生きている。宇宙という箱。地球という箱。国という箱。都市という箱。人間という箱。
 :とある文豪はこう言った。『人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わねば危険である。』
 : 
 :どこで道を間違えたのか。私はいつもそう思っていた。未明。人々は眠り、街の灯りもなく静かな世界。
 :そんなときに考える物事など碌なものではなく、大体のものが寝て起きてしまえばくだらないものだった。となる
 :しかし夜に働き、日が昇っても働く私にはおおよそ睡眠というものの概念がなく、また、ひっきりなしに仕事と私事(わたくしごと)でせわしなかった。
 :だからそんなくだらない考えも私にとっては大きな問題になっていて、脳のどこかに蓄積されていたのだろう。
 : 
 :私は幼少の時より一般的な家庭というもので生活した記憶がない。あるにはあるのだが、それは一般的な家庭の一部なのだろうと思っていて、行事ごとやそういった類のものである。
 :年を三つを数えた時、母のお腹には妹がいた。私は母が好きで、恥ずかしながらその歳になっても母によく乳をねだったものだ。母の実家で皆寿司を食い、母方の祖父がビールを飲んで賑やかに話しているときですら唐突にねだるほどだった。
 :産まれた後の妹の記憶は、あまり無い。父方の祖父母の家に預けられ、私達の家にはクリスマスの時くらいにしかいなかった。その程度の記憶しかない。
 :根本的に他人に興味がなかったのか、はたまた本当に記憶が曖昧なのか、齢三才の記憶などそんなものだろう。
 : 
 :幼稚園に通う頃には、母の顔を忘れていた。母は帰らぬ人になった。
 :別に逝去したわけではなく。ただ単純に私達の家に帰ってこなくなっただけで、その時点でおよそ一般的な家庭とは言えないものになっていた
 :たまにふらりと帰ってきたかと思えば、CDラジカセで音楽を流しながら、タバコを吸い、店屋物を注文する。
 :私は親子丼とうどんのセットが好きでいつも注文していた。
 :しかし家事をしない母のせいか、家の衛生環境は悪く、常にハエが飛んでいて、うどんにハエがたかるなんてのはよくある話で
 :私がそれに不服を言うと母は食えないなら注文をするなと私を叩いた。
 : 
 :父はどうしていたかと言うと、仕事が忙しく、夜遅くに帰る人で、朝も早く仕事に行くためにほとんど会うことはなかった
 :二十七歳で三児の父というのは忙しいものなのだろう。と今なら思うが、社員旅行でハワイに行ったりしていた父は私にとって疎ましいものだった
 :忙しさや色々なことでイライラするのは大人になった私には理解できるが、当時の子供だった私には、父の暴力は理不尽に感じたものだ。
 : 
 :そんなこんなで私は幼稚園の時から、小学生の兄と二人で朝起き、二人で食事をし、一人で幼稚園に通っていた。
 :しかし幼稚園というものは迎えが来ないと帰れないものである。父は終電近く。母は帰ってこない。誰も迎えに来ないのだ。
 :親戚もこの現状を知らず、いや知っていたかもしれないがどうすることもできなかっただろう。私は自然と幼稚園の居残りクラスいた
 :今の時代なら夜まで子供を預かるのも珍しくはないが、今思えば居残り担当の先生は大変だっただろうなと思う。
 :必然的に私は最後の最後まで居残ることになり、親が迎えに来た子が一人、また一人といなくなっても、誰も迎えには来なかった。
 :堪えられなくなった幼稚園側が出した結論が、小学生の兄でも迎えを認めるというもので、まだ低学年だった兄が遊び疲れて帰ってきてから迎えに来る。そんな感じにまとまった
 :それでも最後まで居残っていたのは変わりなく、私は他の子供が出したままのおもちゃなどを先生と片付けて、絵を書いて兄を待っていた。
 :それが辛かったかと聞かれるとそうでもなく、その年齢からそういう状況に置かれていたせいか、私にはそれが『普通』だった。
 : 
 :小学生になるといよいよ母は帰ってこなくなり、いつの間にか用意されているカップ麺の山が汚いキッチンに置かれていて、兄と二人で食べる。というのが当たり前になっていた
 :平日は朝は食べずに学校に行き、昼は給食を食べ、夜はカップ麺。そして兄と二人で寝る。その繰り返しだった。
 :問題は夏休みで、長期休暇の間、どう生活するかが私と兄の悩みであった。
 :見かねた父方の祖父母が夏休みの間、家で預かってくれることになり、事なきを得たが、それでも問題はあって、一つに夏休みの始まる日を祖父母が知らないこと、私と兄はまだ小学生なので連絡することを覚えていなかったし、留守番電話などというものも当時は限られた家にしかなかったのだ
 :兄は兄らしく考えた結果、隣の家の方に電車賃を借り、祖父母の家の最寄り駅まで行くことに決めたが、私には乗り換えも駅名もわからず、ただ付いていくだけであった。
 :祖父母の家は最寄り駅から大人の足で徒歩二十五分という場所にあり、駅前からバスが出ていたのだが、幼い私と兄はそんなこともわからずただ、新幹線の見えるその最寄駅でぼーっとして何時間も過ごしていた。
 :その日は偶然にも仕事帰りの祖母が、バスではなく電車で帰ってきてくれていたために、最寄り駅で偶然に会うことができ、歩いて祖父母の家まで行った。もしそのまま気づかれなかったらどうなっていたかなんて考えてもいなかった。
 : 
 :小学校も三年に上がる頃、引っ越しを急遽することになった。雪の降る日だったのは覚えている。伯父の運転するトラックに荷物を積んで、父と兄と電車で祖父母宅の近くに住むことになった。転校というものは始めてだったが、特に感慨もなく、好きだった女の子も同時期に転校していたのでそれほど未練もなかったのか、単純に幼くてあまり考えなかったのか、今でもわからない。
 : 
 :引っ越した先には知らない女性が掃除をしていて私は困惑したが、父が「新しいお母さんだよ」といったので、お母さんなのか。とあっさり受け入れていた。
 :六歳になった妹とも同じ家に住むことになり、引っ越しの片づけが終わるまで私はひたすらに妹と遊んでいた。きっとお互いに新鮮だったのだろう。
 :向こうも突然そんなに記憶にない人間を兄(姉)と言われて困惑しなかったのだろうかと、書きながらに思った。
 : 
 :それからはあまり大きな事件もなく、だいたい『一般的な家庭』でいられたように思える。その程度には私のものさしでは見えない些細な事件しか起こらなかったのだろう。新しい小学校にはすぐに慣れた。
 :好きな子もできたし、勉強は我ながら神童の域だったし、小学生ながら結構モテたし、普通に楽しく過ごしていた。
 :少しずつ狂い始めたのは義母の変調からだった。義母は精神病院の看護婦(当時は看護師ではなかった)をしていて、夜勤もたまにする人だった。
 :夜勤から帰って来た日は朝からずっと眠っており、夕方頃トイレに起きるのだが、フラフラとしていて私や兄妹の声も聞こえていないようだったので、私達は自然と夜勤明けの義母には触れないでいた。
 :食事は夜勤の前日にたっぷりのカレーか、ハッシュドビーフを作ってくれていたので、お米を炊いて火を入れるだけだったし、なにより私は義母のつくるハッシュドビーフが大好きだった。
 :市販のレトルトのルゥから作るものだったが、それでも好きだった。義母の作るものは何でも美味しかった。豚のヒレカツが多かった気もするが、近所のスーパーで安かったし、何より美味しかったから満足だった。
 :買い物は基本私がしていた。小遣いがもらえたから。ではなく、単純に試食コーナーが好きだったから自分から志願した。
 :お肉はグラム単位で指定されたものをきちんと買い、1パックで値段のついたものは一番量があるのを選んで買っていたので義母も私に任せていた。
 : 
 :少し話がそれた気がするので戻そう。『夜勤から帰ってきた義母には触れない』暗黙のルールの話だったか。
 :小学校高学年からそれはもうあって、中学に上がる頃には生活の一分になっていた。
 :異変が起き始めたのは私が中学一年生の三学期くらいからだったか、あまり記憶にはない
 :帰ってきた私を見て、義母が一言「あなた、誰?」と言ったのだった。
 :怯える義母に困惑しかしない私がそこにはいて、私もそれなりに歳を重ねていたからか、事件らしい事件もなかったからかは分からなかったが、どう対処すればいいのか皆目検討もつかなかった。
 :警察に通報しようとする義母をなだめると、幼児のように泣き出してしまい、口調も幼児のそれになっていった。
 :私がそれに気がついたのはその日が初めてで、帰ってきた父に相談すると時々あったことらしかった。
 :義母は、精神科の看護師だったが、義母自身も気がつけば精神が蝕まれていた。ただ、それだけだった。
 :統合失調症だの精神分裂症だの詳しいことは覚えていないが、不眠から始まり、義母はそこに至ったのだった。
 :夜勤明け、眠れない母は抗不安薬や睡眠薬を常用するようになっていて、それでトイレに起きる時、フラフラしたり、私達の声が聞こえていなかったのだなと、今の私にはわかる。
 : 
 :父と義母の寝室は不可侵であったが、祖母がある日私達にルールを設けた。
 :『帰ったら必ず義母にただいまと言う。義母は必ずおかえりと言う。』それだけのルールだった。
 :結局の所、義母は目を覚まさないのでそのルールはほとんど意味を成さなかったが、それでも私は続けていた。
 :
 :ある日、妹がはしかにかかり、続いて兄、そして私にも感染した。中学二年の一学期だった。
 :発疹と四十三度の熱。初夏だというのに毛布二枚と冬掛け布団に包まっていた。
 :首から下の感覚がまったくなく、熱で全く寝付けない日が続き、十七日ほど私は中学校を休んだのだった。
 :病み明けで学校に行った私はいつの間にか行われていた席替えで全く自分の席がわからず右往左往していたのを覚えている。
 :学校や塾に復帰したはいいが、連立方程式のところをすっぽり授業を受けていなかったため、全くついていけなくなっていた。
 :そんなちょっと憂鬱な日々の中、学校から帰った私はルール通りに義母に『ただいま』を言いに寝室に入った。
 :寝室はタンスが二つ、クローゼットが二つ、古い鏡台が二つ。敷ふとんが二組あったのだが、その日は様子がおかしかった。
 :普段綺麗にしてある鏡台が荒れていて、引き出しも開けっ放しで、一番の異質な点はなんの種類かわからないが、薬が散乱していたのだった。
 :しかし、暗黙のルールもあり、いつも通り触れないでいた私だった。
 : 
 :翌日、義母は冷たくなっていて、死んでいた。
 : 
 :通夜や告別式など一通り行ったが、私は涙が出なかった。
 :義母方の親族に子供が泣いていないのはおかしい、お前たちが義母を殺したんだと、罵られた。
 :香典の話で父方の親戚と義母方の遺族で喧嘩をしていた。父にとっては、葬儀代やお墓の代金が必要だが、義母方にとってはおそらく精神的な慰謝料とでもいうのか、そういう物が必要だったのだろう。
 :双方の祖父母が話し合い、結果香典は義母方が持っていく話でまとまった。
 :火葬し、納骨が終わったあと、義母方の親族が家に来て義母のものはすべて持っていった。形見の品などなかった。
 :私が同じ立場になればそうしていただろうなと、今では思うので責める気はない。
 :ただ、ひと月ほど経って、風呂でシャンプーをしていた時、急に涙が止まらなくなって、わんわんと泣いたのは覚えている。
 :私は産みの母より義母のほうが好きだったのだなと思う。
 :未だに夢に見ることがある。わずかばかりだが幸せだった時代。義母や祖父母や家族全員がいる夢で、ただの日常を過ごす夢。
 :そんな当たり前のようなものは、私の人生ではほんの数年しかなかったのに、強く残っていたのだった。
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 :義母の死から数年経ち、私も高校を卒業する歳になり、一般よりやや上の収入を得るようになり、すでに兄も独り立ちして、妹と父と三人で暮らしていた家を私は飛び出した。
 :そんな大げさな。と思うかもしれないが、何も告げずに引っ越しを決め、保証人は保証会社を使い、荷物は九割捨てて、引っ越したのだった。
 :荷物をまとめていたのは父も気づいていただろうし、同室だった妹も就職が決まっていたので「お金が貯まったらお前も家を出なさい」と残して、昼間に友人の運転する車で引っ越した。
 :その時父はもう働いていなかったので家にはいたが、一言も話さず、挨拶もせず、私の一家は見事に離散したのだった。
 : 
 :それからは特筆すべきこともなく、冒頭に戻る。
 :どこで道を間違えたのか。私はいつもそう思っていた。未明。人々は眠り、街の灯りもなく静かな世界。
 :そんなときに考える物事など碌なものではなく、大体のものが寝て起きてしまえばくだらないものだった。となる
 :しかし夜に働き、日が昇っても働く私にはおおよそ睡眠というものの概念がなく、また、ひっきりなしに仕事と私事(わたくしごと)でせわしなかった。
 :だからそんなくだらない考えも私にとっては大きな問題になっていて、脳のどこかに蓄積されていたのだろう。
 : 
 :私はある日、自死を図った。
 :理由や、そこに至る経緯などわからなかった。
 :久しぶりに見る親族や父や医者に聞かれてもわからないものはわからなかったのだ。
 :そこは鳥籠と呼ぶには緩くなく、牢獄と呼ぶには些か誇張されている。気がつけばそんな場所に私はいた。
 :生きるとはなにか、死ぬとはなにか、何かが欠如した私には親族の言葉は響かず、聞こえず。
 :私の言葉も、彼らには聞こえていないし届いていなかった。
 :頭のネジが外れているのではない。建築された私という家はただ単純に部品が足りていないだけなのだ。
 :それは愛なのか、生きる力なのか、立ち上がる勇気なのか。
 :私には何もわからないのだ。
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