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"エモい"は悪なのか

最近Z世代で流行りの言葉(?)である"エモい"

意味を調べてみると……
「エモい」とは、ただ単に、嬉しい・悲しいという気持ちだけではなく、寂しい・懐かしい・切ないという気持ちや感傷的・哀愁的・郷愁的などしみじみする状態も含んでいます。
(出典:フジフィルムスクエア)

かく言う私もエモいという言葉はよく使う。
"やばい"と同じように1つの言葉で沢山の情景をまとめられるからだ。
写真界隈を見ていると、この"エモい"は否定的評価を受けていると私は思っている。

否定的な友人の意見はこうだ。
「写真は、撮る時に構図をどうするか、画角をどうするか、露出をどうするか、設定をどうするか考える必要がある。」
なるほど。それはそうやな。

「でも、エモいという言葉を使ってしまうと写したい情景がどういうものなのかを頭の中に取り込めないまま、思考を止めてしまうことになる」
なるほど。。。難しい。

その時会話では相槌を打ったものの、ゆっくり考えると自分は違う考え方なのだと気づく。
エモいというのはその情景を一言で表したもので、そこで思考を止めるかどうかは人次第なのでは?と考えた。

具体例をあげようかと思う⋯稚拙な写真で申し訳ないが、御容赦いただきたい。

単9744

ロクヨンの単回を竹下通りから狙う。
個人的エモ(?)ポイントは、背景の原宿らしいポップな看板に、向かってくる人と離れていく人の関係性を表したとこである。
駅へ向かうサラリーマン背景を手前に写し、向かってくる人達を小さく写すことで、"原宿"という楽しげな街における人の流動の対比を表現した(つもり)
その後ろでロクヨンがサッと現れる。そんな日常的な姿を撮影した。
個人的にはその対比が"エモい"と直感的に思ったのである。

この写真から、"エモい=写真の本質への思考停止"とはならないのでは?と考えた。
先述した通り、"○○が○○だからエモい。"というように言語化できれば良いんだと考えた。
確かに、ぼーっと撮って"うーん、エモい!"で終わってしまうと思考停止になってしまう。
なので、何故エモいのかというのを考えて撮影をしたいと思うこの頃であった。


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