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エッセイvol.25 羞恥心と成功体験

 アメリカンインディアンの教えという格言をご存知だろうか。
 私が目にしたのは、どこかのトイレに飾ってあった額縁だと思う。

批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします
敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦います
ひやかしを受けて育った子は、はにかみやになります
ねたみを受けて育った子は、いつも悪いことをしていような気を持ちます
心が寛大な中で育った子は、がまん強くなります
励ましを受けて育った子は、自信を持ちます
ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります
公明正大な中で育った子は、正義感を持ちます
思いやりのある中で育った子は、信頼を持ちます
人にほめられる中で育った子は、自分を大切にします
仲間の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます

 私はこの中の、

ひやかしを受けて育った子は、はにかみやになります

 の部分に、釘付けになった。

 母がよく台所で料理をしながら鼻歌など歌っていると、大抵はサビだけ歌詞を歌って、あとはハミングになってしまう母に、父は、
「続き歌ってみろよ?」
 とニヤニヤして歌詞を覚えていないことを揶揄った。
 悪気は一切ないのだ。
「いいじゃないのよぉ」
 と口を尖らせる母が可愛らしいと思っていて、揶揄いたいだけだと思われた。
 猫を猫じゃらしで遊ばせる時の感じは、それに似ている。
 捕まえられないように、フェイクを入れて右に左に、上に下に、猫じゃらしを動かして、ほれほれ、と煽る。
 捕えられてしまっては、長く遊べないので、捕まえられないギリギリのラインを狙う。
 もちろん猫もそのギリギリを攻められることによって興奮する。
 以前、友人に、
「遊んであげていると言っても、猫の方からしてみれば獲物が捕まえられなくて、遊ぶというよりもむしろストレスが溜まらないかしら」
と言ったら、
「そろそろ飽きてきたかなと思ったら、最後はちゃんと捕まえさせてあげているよ?成功体験ないとつまらないでしょ」
と言われて、目から鱗が落ちた気持ちになった。
 齧ったり蹴ったりしゃぶったりして、すぐにズタボロにされてしまうので、飽きるまで遊ばせて、捕まえるという成功体験ないままに終了していたことを反省する。
 生来の自分はあまり優しくないのだと思う。
 話を戻すと、母のみならず、私に対しても、父は何か失敗をしたら、指を指してケラケラと笑い冷やかすようなタイプの人だった。
 末っ子でお茶目で、いたずらっ子の気質があった。
 陰湿な感じのではなくて、ちょっとしたことに面白味を見出す、陽キャの父。
 私がはにかみやさんに育った一部の要因がそこにあると思う。
 自己表現は、発表してこそ完成する。
 しかし、近年は心ない発言者が、意を決して公表したものに、易々と、ただの目立ちたがりであるとか、承認欲求だとかの罵りを浴びせることが出来てしまう。
 前述の性格故に、羞恥心を煽って、苛まれることは殊更辛い。
 慣れるということがない。
 しかしながら、好き嫌いが個人の感想として発せられることには、出来るだけ寛容でいたいと思う。自身の意見との相違があったとしても。それもひとつの自己表現だから。
 ただし嫌悪の言及は、なるべく控えたい。
 時に攻撃となることもあるし、無作為に集団を扇動する可能性も秘めている。
 好きなものを好きなだけ。私の座右の銘である。
 好きなものを選択する。それすらも単純なようでいて、時に難しい。
 人生には一筋縄でいかないことが沢山ある。
 時間もお金も体力も無尽蔵ではないから。
 愛だけは、リミットを設けなくていい。
 誰かに選ばれなかったとしても、卑屈になる必要はない。
 この広い世界で、誰にも選ばれないはずなどない。
 しかし、実際には家と仕事場の往復のような狭い世界で、機会に恵まれずに過ごしていると、可能性を信じられなくなる。
 大事なのは成功体験なのだ。
 愛された記憶。
 そして、他人は自身の鏡であると思えば、愛情表現はきちんと伝えていかなければならない。
 そう思うのに、自分のことすらままならないのは、どうしたものだろう。
 クソ真面目に考えに耽っても、思うようにならないのは、買い与えた猫じゃらしよりも、包装紙を解いたあとのリボンの方が気にいる、猫の気まぐれのようなものだろうか。

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