委ねられる場所
外遊び
私は子供をよく広い野原に連れて行く。
そこには所謂、滑り台や鉄棒、ブランコといった遊具はない。
人がつくった公園ではなく、自然がつくった場所。
なぜなら、子ども達は遊びを見つける天才 だから。
アリやてんとう虫、ダンゴムシをひたすら探したり
タンポポの綿毛を飛ばしたり
凸凹道を走り回ったり
木の葉の上でタップダンスしたり
泥んこになって土いじりしたり
鬼ごっこや、おままごとが始まったり
木の枝でお絵かきしたり
私は子ども達のその素晴らしい能力を幾度となく目撃してきた。
でも正直、最初からそれに気づいていたわけではない。
近所の公園と野原、双方に通う中で、“遊び方の違い”に、徐々に徐々に気付かされたのだ。
そして、野原で遊ぶ方がはるかに遊びの質が高い、と感じた。
委ねる とは
昔はもっと子どもを、言葉を選ばなければ、“放ったらかし”ていた。
そう、子どもに“委ねていた”と思う。
だって使い勝手のいい育児用品、紙オムツやベビーカーも、便利な家電、炊飯器も洗濯機も、便利なサービス、ネットスーパーなんかもなかったから。
それでいて3,4人兄弟なんて当たり前だった。
だから家事にあてる時間が多い分、必然的に育児に対しては少なくなり、手薄になる。。
その点、今の子ども達はとてもケアされている。
どこ行きたい?
に応えて、ソレがある所にいく。
何したい?
に応えて、ソレができる所にいく。
何が好き?
に応えて、ソレが体験できる所にいく。
目的地に連れて行くのも人、目的地自体も大抵人がつくった場、だ。
子どもの要望をきいて行動しているから、一見子どもの自主性を重んじているようだ。。
が、これは本当の意味で“委ねて”いない。
まだ聞いたことも見たことも考えたこともない世界が広がっているのに、
子どもはソレを望むことは不可能だ。だってまだ知らないのだから。。
委ねられない、ということは、
人が人をコントロールしている、ということ。
コントロールすることは、ケアすること、要は子育てしてること、とイコールに値し、子どものためだ、と錯覚してしまう。
でもそれが、公園と野原で遊ぶ娘たちを見て、違う、と最近気づいたのだ。
むしろ子どもたちの可能性や選択肢を狭めている。。と。
空間が人をリードする
だから私は 場、空間 に委ねたい。
そしてたくさん遊び、学んで欲しい。
野原のような、室内施設。
何もないようでたくさんの出逢いに溢れた場所。
そんな場を提供したいのだ。