ジョーカーイヤーワン レビュー
Batman#142~#144 『Joker year one』のレビューです。
※ネタバレを含みますので未読の方はご注意ください
あらすじ
レッドフードのリーダーだった男(ジョーカー)は、エースケミカルでバットマンとの邂逅後に死んだはずだった――。
街にはレッドフードの模倣ギャングも現れるなか、かつてのリーダーは死んでいないと推測したバットマンは、エースケミカルの薬槽タンクから姿を消した男の行方を追跡していく。
その頃ジョーカーはバットマンに全てを教えたと言う男と出会い、彼はバットマンが習った全てを同じように学んでいくことになる。
バットマンへ恐れを抱き、人生をやり直したいと願っていた男は、かつての痛みと恐怖を感じる自分を消し去り、「ジョーカー」へと変質していく。
そして時が流れ現在、街はジョーカーによってゾンビのようにジョーカー化した人々で溢れていた。
バットマンはジョーカーの残した手掛かりをヒントに街を救う手立てを探していく。
果たしてジョーカーとは一体何なのか?そしてバットマンはジョーカーに打ち勝つことが出来るのか?物語はジョーカーの姿を追い求め、過去と現在を往復していく――。
ジム・ゴードンの光り輝く善性
まず初めに本作で唯一良かった点を記しておこう。
それはジム・ゴードンの魅力を再確認できたところである。
彼は仲間だと思っていた警官さえ汚職に手を染めるなか、希望が無く、怪物だらけのゴッサムという街のなかで、汚職を払拭する勇気を見せる。
さらにはそれが自分一人で出来るものではなく仲間と協力して出来ることだと意識するのだ。
キリングジョークでのジムの姿ももちろん素晴らしかったのだが、少し遠くも感じていた。
普通あの状況なら大抵の人間は折れるし、精神的ダメージがかなり残るだろう。
ジムはバットマンやジョーカーと比べると「普通の人物」であるはずだが、彼も十分特異で遠い存在のように感じていた。
だが今回は職場に話が限定され、より読者に近い身近な存在としてジム・ゴードンの不屈の精神が分かる形になった。
彼が汚職を払拭しようと立ち上がる姿は非常に感動的なシーンである。
さて何と本作で良かったのはここまでだ。
ここからはいまいちだった点について見ていこう。
稚拙な恋愛描写
バットマンは街を救う手掛かりを探している最中にセリーナと再会するのだが、なんと彼は突然語彙力を失ってしまう。
これまでの緻密な描写から、ロマンスを描くにしてはIQ2な表現である。
私は何もバットマンとセリーナが恋愛関係を結ぶことを否定しているのではない。これまでしっかり描いてきたストーリーから一転、稚拙な恋愛描写になることに否定的なのだ。
これではバットマンとセリーナは親密な関係性であるということが伝わるのではなく、ただバットマンは「女を愛する正常な男」であるというアピールに過ぎないように思えてしまう。
確かに三話という制約の中で本腰を入れて恋愛描写まで描けないというのも分かるが、それならいっそ描かない方がましである。
しかしバットマンは常にコミュニケーション不全なので、それが恋愛になったところで突然上手くコミュニケーションが取れるわけではないだろう。
つまり私は稚拙な恋愛描写(=バットマンは女を愛する「正常な」ヒーローであるという強化)に怒るのではなく、バットマンのコミュニケーション能力の低さを描いたお決まりのコメディ描写として今後見るべきなのかもしれない。
バットマンは何もしていない
今作でバットマンは一体何をしただろうか?
現在パートでバットマンはジョーカーの残した手掛かりをもとに、ジョーカー化した街を救う手立てを見つけようとする。
そしてついにバットマンがジョーカーを見つけると、彼はこのジョーカー化の解毒剤がコウモリの発する音波であるとジョーカーに教えてもらう。
(実際は直接教えてもらったわけでは無いのだが、あれはもうほぼ教えてもらったと言っていいだろう)
この事件を経て、バットマンはジョーカーへの認識を改める。
冒頭バットマンは自分が常にジョーカーに勝ってきたと述べていた。
しかしこのようにジョーカーは過去自分に簡単に勝てた可能性があったのだと示唆するのだ。
つまり三話をかけてバットマンが分かったことは、ジョーカーは悪魔であり、彼は強いのだということだ。
これはバットマンにとってはもちろん、我々読者にとっても当たり前の前提である。
今さら再認識させる必要も無いと思うが、なぜか本作がストーリーを通して示したことはこれが全てである。
そしてバットマンとジョーカーが初めて会ってからは三十年経っていることが本作では語られている。
三十年もかけてバットマンがジョーカーは実際もっと強かったのだと認識することに一体何の意味があるのだろうか?
むしろバットマンとジョーカーの関係性は後退していると言っていいだろう。
かつてスコット・スナイダーの『バットマン:ラストナイト・オン・アース』や、『レゴバットマン ザ・ムービー』では、バットマンはジョーカーと前向きで、かつ二人きりの世界ではなく開かれた関係性を築けることが描かれた。
一方ジェームズ・タイノンIVの『バットマン:ジョーカー・ウォー』ではバットマンがヒーローポジションとなったハーレイ・クインを救い、ジョーカーを救わないというあまりに当たり前の選択をし、そして今作ではジョーカーは悪魔なのだというあまりに当たり前の認識を確認しただけだ。
このように、善性のある人間、そして自分の認めた範疇で人を救い、ジョーカーは悪だと自分から遠ざけ分断を生むバットマンは、果たしてバットマンでいる意味があるのだろうか?
彼の後退した精神性は作中他のシーンにも表れている。
途中ジョーカー化したジェイソンと出会ったバットマンは、彼に対して自分の不義理を恥じながら、しかし一方でジョーカーへ責任転嫁している。
確かにジョーカーのしたことは許されることではない。それは当たり前だ。
だがバットマンが「そもそもジョーカーのせいだ」と言い始めたところで何も始まらないのである。
ジョーカーが悪であることは間違いない。
そしてそんな彼を救おうとするバットマンの行為は、これまでジョーカーがしてきたことを思えば、はっきり言って「異常」である。
だが私はロビンたちに責められながらも、ジョーカーを救おうとする異常なバットマンが好きなのである。
そしてこうやってジョーカーの存在を遠ざけ、救いの手を差し伸べないバットマンは大地雷なのだ。
しかしそもそもこのジョーカーイヤーワン編はチップ・ズダースキーの連載中の一部であり、現在連載中のマインドボム編でまさにバットマンはジョーカーと再び相対している最中である。
きっとこのジョーカーイヤーワンはとっかかりの一つに過ぎず、これをベースにさらなるバットマンとジョーカーの踏み込んだ関係性が描かれることに期待したい。
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