『ツキモノ』
夫の陰に女がいる。髪の短い立派な女。
半年ほど前からぼんやりと見え始め、彼岸を過ぎたらやけに濃くなった。
特に夕方、輪郭が際立つ。
こういう現れ方をする女は、大抵髪が長くて細身で陰湿で頼りない容姿のはずなのに、夫の陰に立つ女はいやに堂々としていた。
まっすぐにこちらを見る。その目に意志がある。この世のものではないのに。
長い間見てはいけない。すぐに目を逸らすつもりが、女の大きな瞳にいつもわたしは引き込まれてしまう。
わたしよりずっと若かった。二十代半ばか。膝丈のワンピースにヒールの高い靴を履いている。
背は夫の目の高さまであった。手足が長く、肉づきもよい。V字に開いた胸元が豊かだ。
女の全身は白っぽい。ホログラムのように向こうが透けて見える。霧のように儚いが、それでも女は妖艶だった。
夫の昔の女だろうか。結婚前、それとも後。娘の妊娠中。育児に必死だった頃。もう十五年も前の話だ。
夫に関係していたのか、たまたま夫にくっついているだけなのか。どうして命を落としたのだろう。若いみそらで。
女はこの半年間、毎日現れる。見えているのはどうやら家族でわたしきりのようだ。さすがにこのまま置いてはおけないと思い始めた。
叔母のつてに祈祷師がいる。わたしは叔母にわけを話し、二人でその祈祷師に会いに行った。家族に憑きものがあると打ち明けると、本人を連れて来いと言う。わたしを祓ってもよいが、効果は薄いとにべもない。
一人になってわたしは悩んだ。夫に何と話をしよう。どう持ちかけたらよいか。あなたの後ろに女がいる、もう半年も憑いているとはまさか言えない。
一週間ほど経ったある日、夫の晩酌につきあった。帰宅したとき夫の陰にはっきり見えていた女は、いつの間にか姿を消していた。
薄く切った蒲鉾をつまみにビールを飲んでいた夫が、左腕の付け根をまわしながらわたしに言った。
「やけに凝るんだよ」
「え?」
「こっちの肩」
ぐるぐると何度かまわして、夫は眉をしかめた。
「痛むの?」
うーんと夫が唸った。
「そこまでひどくはない。だけど続いてるから気になってね。これってもしかして四十肩かな?」
続いている、という言葉にわたしは反応した。
「どのぐらい?」
うーんと夫がまた唸る。
「一ヶ月ぐらいかな」
彼岸の頃だ。女の気配が濃くなった時分。
夫の背後に目を凝らした。ちょうど左肩のあたり。女の顔は見えない。
わたしはグラスのビールを飲み干し、テーブルに置いた勢いのまま言った。
「あなた今年、前厄でしょう」
「そうだっけ?」
「本厄だけでいいかなと思って言わなかったんだけど、やっぱりいまからでも祓ってもらったら?」
「厄祓いってこと?」
わたしは頷いた。
「叔母の知り合いにお祓いしてくれる人がいるのよ。形だけでもやってもらったら、案外すっきりするんじゃない?」
わたしの提案に、夫は意外にも興味を示した。長く続く肩凝りがよほど気になっていたらしい。風呂から上がった娘が通りすがりにその話を耳にし、自分も行くと言い出した。祈祷なんておもしろそう。遊びじゃないわよと嗜めたが、ついてくると言って聞かなかった。
*
日曜日、叔母と駅で待ち合わせ、四人で電車に乗った。女は夫の陰にいる。一時間ほど電車に揺られ、祈祷師の元を訪ねた。
前回と同じ六畳間に通された。三枚並んだ座布団の右端へ夫が座り、わたしが真ん中、娘は左端に腰を下ろした。叔母は一人、後ろへ下がった。
祈祷師が遅れて部屋に入ってきた。まっすぐ夫の前へ行き、正面から恐ろしい目つきで夫を睨んだ。
カッと大きな音が鳴った。
夫が後ろへひっくり返った。
音は祈祷師の発した声のようだ。畳の上に倒れた夫は、目をつぶったまま動かない。
「眠っている。じき覚める」
祈祷師が厳かに言った。
締め切った障子越しに、日の傾いてきたのがわかった。うっすら見えていた女の輪郭が、徐々にくっきりし始めた。女は夫から少し離れた壁にもたれ、横座りになっていた。斜めに重なる長い足がしどけない。
白っぽいワンピースのように見えていたものは、スリップであることがわかった。足の先には黒いハイヒール。唇の赤まではっきり見える。
娘が小刻みに震えだした。お弟子さんに貸してもらった毛布で全身をくるんだが、それでもかちかち歯を鳴らす。大きく開いた目は何も見ていなかった。
わたしは彼女に腕をまわし、毛布越しに背中を抱いた。想像よりもしっかりとした体つきに、娘の成長を感じる。こんなときにと思いながらも、わたしの胸は熱くなった。
昏倒している夫に向かって、祈祷師が何やら唱え始めた。
それまでぼんやり横座りになっていた女が、途端に顔を歪めた。喉を押さえて苦しそうだ。
女の正体が雪崩のように、わたしの中へ入ってきた。西洋館。ダンサー。若い書生。駆け落ちを約束した日、女の部屋に押し入った悪漢。襲われ、殺された。書生は今世でわたしの夫に生まれ変わった。それを知った女が、夫にとり憑くようになった。
「最後に訴えたいことがあるそうだ」
祈祷師が言って、わたしを見た。
あれほど鮮やかに色をまとっていた女は、祈祷師の呪文によってまた白っぽくなっていた。
女が眉根を寄せて、わたしを見据えた。
「アキラメロ」
「え」
「オマエニムスメハナイ」
「なにを」
「オットモ、ナイ」
カッと大きな音が鳴った。
女が消え、次に娘が、その次に夫が消えた。後ろを見た。叔母もいない。
祈祷師の声だけが、遠くに聞こえた。
「あちらへ行った。若い女が連れ去った。もうこちらへ来ることはない。よく手を合わせなさい。残された者同士、仲良う暮らしなさい」
言葉の意味を、わたしは理解できなかった。
冷たい手に、わたしは引かれていた。
「ドコヘイクノ」
わたしは問うた。
「サミシイトコロ」
女が微笑んだ。