見出し画像

【詩とエッセイ・日記】13歳だったころ

こんばんは、長尾早苗です。

夜8時まで起きていることがめったにないので、今は特訓中というか、夜遅くまで起きていられる体力を考えています。

あすけんで調べてもらったところ、わたしのカロリーコントロールは非常にバランスがいいとのこと。
低体重・低血糖をふせぐため、今までよりさらに健康維持に役立っています。
ただ、脂っこいものが苦手なので、どうしてもカロリー不足になりがち。
疲れやすいのはカロリーが足りていないのと、ビタミンC不足でした。とほほ。

今日はわたしが13歳だった時の話をします。

早生まれなので12歳の時、念願かなって横浜の(当時の)最難関女子中高、フェリス女学院中高に入学しました。

今は横浜付近に住んでいるので学校名はリアルで出せないほど、勉強ができて一芸に秀でている女の子たち、お嬢様の学校でした。

一学年下にたかまつななちゃんがいるし、彼女のようにお嬢様として育ちながら、それでもこの世の中を変えてやる! というガッツと職人気質に満ち溢れた子たちが通う女子校でした。

先輩たちもそうだし、割とわたしの同期以外はそういう「女性が活躍の場を狭めている世の中」に疑問を抱いている子たちが多かったように感じます。

わたしの同期はとても特殊で、親のあとを継いで医者になるか、親のあとを継いで芸術家になるか、結構極端な子たちばかりでした。
開業医の一人娘の女の子も多くいたけれど、ストレスのあまり胃薬を飲んでいる子もいました。

わたしはといえば気楽なものでした。小学生の時に小説をホチキス止めしてクラスのみんなに読んでもらっていましたが、いまいち小説とは書き方が違いました。だから、勉強をすすめれば、同期と同じようになろうと思えば医者になれたし、芸術家として勉強すれば芸術家になれた。選択肢がその頃与えられていたんです。

わたしの友人はわたしのように、両親(あるいは片方の親御さん)がとても苦労して働いている女の子たちが多かったです。だから簡単に「お嬢様」扱いされたくなかったんですね。

12歳の時に全身麻酔でそくわんの手術をして、闘病生活を17年間続けてきましたが、やっぱりわたしは作家になるしかなかったし、活動を続けていくほかなかったんです。

小学生の時は、毎日泣いていました。というか、すべてに怒っていた。
すべてに怒るから怒っている自分に腹が立つ。結果、泣く。

今はだいぶ大人になったので、泣くことは非常に少なくなりました。
13歳だったころはそくわんの手術と合併症に苦しんでいたので、やっぱりわたしは医者の道をあきらめなければいけませんでした。今でも医学には興味があるけれど。

********

まぶしい

さくらがどうしてさくらというのかを
考えたくて先生に質問した日を
わたしはたぶん忘れない

いつも悲しそうな顔をしている国語の先生を
わたしはその日
はじめて笑わせたらしい

親のあとをついで医者になるか
親のあとをついで芸術家になるか
どちらにもなれた
なろうとしたらなれた
自由もこれからも
わたしもわたしたちも
関係がなかった

早弁ができるか
校庭でドッヂボールはできるか

もう行っていいんだよ

昼の十二時
窓から見えた港に
赤い靴のチャイムが鳴る

*******
今回、三角みづ紀さんの詩集『どこにでもあるケーキ』(ナナロク社)の自作朗読、「チョーク」を聞いて、非常に感銘を受けました。
『どこにでもあるケーキ』の語り手の女の子は13歳という設定の連作の詩集です。
わたし自身はただのファンというか、自分の今抱えている苦しみを表せる詩人として、三角さんと文月悠光さんはあこがれで、同志のようにも思えたんです。
文月さんは彼女も大学生時代から面識があったので、すごく近しいといえば近しい間柄でした。年齢も近く、文月さんから学んだことも多かったです。

思ってみれば人生って不思議。
13歳のころから学校には行けない日が多く続いたけれど、「詩を書ける生徒がいる」と何かと先生たちから可愛がられていました。
だからこそ、高校を中退せずに大学まで行かせてもらい、詩人が授業をしている恵まれた環境の中で育って、文学フリマで知り合ったひとと結婚して、今のわたしがあります。

親や家族に迷惑ばかりかけるし、わたしの執筆仕事にはたいへんお金がかかります。生来の寂しがり屋かつ、移動というものが生活に入ってこないと、小さな世界をクリアにして大きなことを語れません。

13歳の時はすごく誇らしかった。
周りには厳しい受験を耐えてきた勉強熱心な女の子たちばかりでしたし、後継ぎ問題に関してはわたしは何も言えませんでした。
意地悪な男の子もいないし、割合自由でした。
進学校なのに先生たちが言わなかったことは「東大に行け」でした。
それはすごく、わたしたちの生き方を尊重して言ってくれていたんだなと思います。

でも、手術をしてから、自分の書くものはこれなんだ!
という意思をきちんと固められたように思います。

13歳の時質問した「さくら」の理論……「咲く+良(ら)」というのは、日本文学の根源に迫っていたのもあって、今でも先生がはじめて笑顔を見せた日のことが忘れられません。

当時先生はとてもやせていました。
彼の奥様が早くにこの世を去ってから、先生は急激にやせてしまったそうです。今思えば、そんなに悲しいことってないと思う。
ぶかぶかのズボンをベルトで固くしめ、結婚指輪を外さないでいたし、表情に翳りがあった。

それでも、わたしは勉強や課題をすることによって、少しでも物事をわかりたいと願う子どもでした。

懐かしいな、13歳。
当時はそこでわたしの生き方を変えてしまうなんて思ってもみなかった。
でも、全部許していいのだと。今なら思います。

ちょっと今夜は昔語りをしてしまいました。

そんな夜もあるようです。

いいなと思ったら応援しよう!

長尾早苗
よろしければチップをお願いします!みなさまからいただいたチップで次回制作作品の補助にあてたいと思っています。

この記事が参加している募集