『子供の頭は、真っ白なノート』
noteでフォローしているakkoさんの漫画を読むと、小さい頃の事を思い出します。
小さい子の頭の中は、本当に真っ白なノートのよう。
私も似たような体験をした事があります。
三つくらいの時、いつも履いていた靴が「小さく」なりました。
母が、私に靴を履かせながら、「靴が小さくなったね。」と言います。
私は「また、靴が小さくなった。」と思った。
それまでも何度も「靴が小さくなった」と聞いていたので、
「靴とは、少しずつ小さくなっていっていつかは消えてしまう物」だと、思っていました。まさか、自分の体が大きくなっているなんて思いもしなかったので。
事実から言えば、靴は小さくならないのに、
なぜ人は、「靴が小さくなる」と言うのかな。
やはり小さい頃、
障子を通して外の光が優しく差し込む部屋で、
一人お昼寝させられていました。
目が覚めると、誰もいない。
自分以外の人間が、いなくなってしまったのかもしれないと
パニックになって泣きながら廊下へ走り出た。
茶の間で、「金どこ」を見ていた祖母と母は、
びっくりして「急にどうした?怖い夢でも見たの?」と、
聞いてくるけど、人類消失パニック後、
始めて出合う人類に感激して、更に泣き続けた。
子供は、世の中を「そのまんま」見ます。
その曇りのない瞳は、美しい物をより美しく見せてくれる。
宇宙は『精巧な秩序』の法則にのっとって運行していると、見せてくれる。
だけど、大人になるに連れて、社会生活の中では、
自分の中にある『秩序』や『美しさ』を、ねじ曲げて、
他人に合わせないといけない時がある。
「いけない」・・では、少し語弊があるかな。
「ねじ曲げた方が、楽な時がある」・・の方が正解に近い。
それが続くと、いつのまにか自分の「オリジナル」の感覚が、
「大人世界」の感覚とシンクロして、あんなに透明だった瞳が、
曇っている事に気づく。
子供が産まれて、その子が昼寝から泣きながら起きてきても、
「テレビが、終わるまで寝てれば良いのに・・」と愚痴る母親になる。
近代以前のヨーロッパでは、「子供は小さな大人」として扱われ、
大人と同じように労働させられていたそうです。
そのうち、世の中が豊かになって、
子供に教育の機会が与えられるようになると、
次第に、人間の知識の底上げが起こり、
知識が便利を生み、便利が時間を生み、時間が知識を生む・・・
と、飛躍的に豊かになった。
子供を大人扱いしていたままだったら、
未だ、人類は「食べる為」だけに働く貧しい生活だったかもしれませんね。
akkoさんの漫画が、たくさんの人に読まれて、もっと、もっと「子供」を、「子供」扱いしてあげれる大人が増えると良いな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?