EX3話:『アボーティブ・マイグレーション』04
『――”シャチについて”。シャチはイルカの仲間で、鋭い歯と大きな身体をもつ生き物です。人間を除いては自然界に敵は存在せず、非常に獰猛で貪欲な捕食者として知られています。
奇襲や挟み撃ちなど、高度な狩りの技術を持ち、サメを一撃で仕留めることもあるとされています。解説の続きを聞きたい時は、次のボタンを押して下さい』
緊張感とは無縁の館内アナウンスを聞き流し、おれは状況を見て取った。
通路は大人二人が並んで通れるくらいには広い。
そこに、奥の設備棟から持ち出してきたのだろうか、横倒しにされた棚やロッカーが積み上げられてバリケードとなっている。
そしてその向こうに、くだんのテロリストがいた。
おおよそ10メートル程度のところまで距離を詰めたところで。
「おーっとそこまでだ。両手を挙げてそこで止まれ!」
バリケードから身を乗り出し、テロリストが拳銃をこちらに突きつける。
手早く人物観察をすませた。日本人、二十代中盤、染めた髪、凶暴だがしまりのない表情。瞳孔に揺れ。つまりはかなりの緊張状態。実際のところ荒事の経験は少ないようだ。
アースセイバーの制服。拳銃は某国製の小型拳銃。組織のバックアップがあれば調達は不可能ではない程度のもの。
――結論、素人に毛が生えた程度。
「……何モンだァてめぇら!」
声を張り上げるエコテロリスト『白シャチ』氏に、おれは両手を上げて敵意がないことを示す。
「どうも!貴方と争うつもりはありません!私たちは話し合いに参りました!」
「話し合い?ざっけんな、ガキと口約束してなんになる。どうせこの水族館は包囲されてんだろ!!責任者はどうした!」
こればかりは色々と全くそのとおりである。この周囲は現在県警の包囲下にあるし、そんな状況下では未成年との口約束なんぞなんの効力もない。
「我々は太平洋電力の鈴木常務から、この交渉を任されたエージェントです。ここに委任状が――」
「勝手に手ェ動かすな!ゆっくりこっち見せろ」
おれは素直に従った。相手に警戒心を抱かせないようゆっくり腕を動かし、胸ポケットにしまった依頼人からの委任状を取り出し、広げてみせる。
細かい文字で書かれた権限委任の文言は見えないだろうし、そもそもテンパった『白シャチ』氏が理解できるかも怪しかったが、末尾にでかでかと捺印された『太平洋電力』の社印は、たしかに効果があったようだ。
「――ヘッ、そうかそうか。やっと連中、要求を呑む気になったか――おっと妙なマネすんなよ、こっちには人質がいる!」
言うや男は、バリケードの影から一人、人間を引きずり出すと、その頭に銃口を押し付けた。
「ああっ! う、撃たないで。た、助けて下さい……」
「陽司、あれ!」
真凛のささやきに、おれもごく声を押し殺して舌打ちする。
「まずいな……!人質がいたなんて聞いてねぇぞ」
男に捕らえられているのは、二十代後半と思われる女性だった。休館日に当番だった事務職員なのだろうか、シャツにスラックスという飾り気のない出で立ちで、銃を突きつけられて怯えきっている。
「船だ! 燃料を満タンにしたモーターボートはどうなった!」
「痛いぃ!やめて下さい……っ!」
恐怖と痛みでパニック状態の女性。おれは雑談で気を落ち着かせてから切り出すつもりだった台本を、早回しせざるを得なくなった。
「今用意させています。私たちの要求は、貴方が発電所内にしかけた爆弾の解除コードです。それさえ教えて貰えれば、貴方の安全な国外退去を保証します」
『白シャチ』が甲高い怒声を張り上げた。
「はっ! 誰がンなヨタ話信じっか! まずボートだ。コードは俺が安全なところに着いた後で連絡してやる!」
「えーですからそこを話し合いのスタートとしてですね、お互いの要求をすりあわせるのが交渉で……」
聞いちゃいない。
「話し合いだとぉ? そもそも元はといえば、さんざん俺達が警告したにも係わらず、原子力発電所をまた動かそうとした電力会社の連中が悪いんじゃあねぇか!今さら何を言っていやがる!ゲンシリョクってのは、地球を汚すからこの世にあっちゃあならねえんだよ、だから俺達アースセイバーがこの青く眠る水の星にそっと命の灯を点すんだッコラー!」
怒声なのだが、極度の緊張状態でどんどんトーンが上がっていって、もはや金切り声である。
「こりゃダメだな」
おれはひとつため息をつくと、隣のアシスタントをみやった。
「真凛、……時計」
「うん」
返事は簡潔だった。最近はなかなか有能であると認めてやらざるを得ない。
「あーおほん。ところで貴方、さっきからおれ達の方に銃向けてますけど」
声を張り上げ続けて息が切れたタイミングを見計らって、おれは声を差し込んだ。
「あ?」
「後ろにも気をつけた方がいいんじゃないですかね?」
おれは意味ありげに男から目線を切り、肩越しの後ろの空間を覗き込む。
まさにその瞬間、館内に音が鳴り響いた。
「な? ――う、後ろだとっ!?」
咄嗟、銃口を背後に突きつける『白シャチ』。だがそこには壁しかなく――ただ、館内放送からののどかなチャイムが鳴り響くだけであった。
『館内の皆様へ。ただいま、十二時をお知らせします』
「……ンだよ放送じゃねぇか脅かしやがって!」
銃口をこちらに構え直す『白シャチ』氏。
――いや、一瞬でも意識を逸らせれば十分だったんだけどなあ。
さすがに五秒も猶予があると、実地訓練にもならない。
「んなっ!?」
男がこちらを振り返った時。そこにはすでに10メートルの距離を潰し、男の視界の下に滑り込んでいた真凛が、万全の迎撃態勢を整えていた。
「ふっ!」
「ごぉっ!?」
速度を乗せた左の手刀を一閃、拳銃を叩き落としつつ、体重を乗せた右の掌打で鳩尾。二つの技を一挙動で放つ地味に練度の高い技で『白シャチ』を無力化すると、
「よいしょっと」
そのまま腕を抱え込んで引き倒し、脇固めに移行する。関節技にも色々ある。一瞬で折るやつ、痛みはないけど全く動けないやつ、そして、ダメージは少ないけどものすごく痛いやつ。
「あだだだだだだっ! い、イテェ、ギブ、ギブギブギブ! イテェ、離せ、離してくれ! ……た、助けて、いてええよぉ……!!」
おれはまったく感動しない悲鳴を聞き流し、『白シャチ』氏に近寄った。
「さて、これでようやく話し合いの準備が整ったわけだ」
「うまく行ったね陽司」
「ああ。コイツが間抜けで助かったぜ。今時ひっかかるかねこんな手に」
これで交渉を待たずして事態は決着。……いや待て待て、いまのおれの優先事項はこんな些事ではない。
「あーっ、大丈夫ですかお姉さん?」
『白シャチ』に突き飛ばされて床に倒れていた女性を助け起こす。当然、腕は取るし肩も支える。紳士のたしなみとして当然であろう。
「はい……。ありがとうございました」
乱れた前髪からようやく素顔を覗くことが出来た。切れ長の瞳が印象的な、可愛いと言うより格好いいという感じの美女であった。むろんそれは、おれのテンションを上げることはあっても下げることはいささかもなかった。
「怪我はありませんか? まったくお姉さんみたいな美人を人質にするなんざうらやま……いやいや、最低の野郎でしたね~」
肩から腰に手をスライドさせ、女性を立ち上がらせる。紳士に!紳士に!!
「はあ、どうも」
「また悪いクセがはじまったよ」
「何か言いたいことでも?」
「別に。……でも期待外れだったかなあ~。もしかしたら凄腕のテロリストかも、なんて思ったんだけど」
未だ悲鳴を上げ続ける『白シャチ』を抑え込みつつ、嘆息する真凛。
「おれ達の業界だって強者ばかりとあたるわけじゃねぇよ。ハズレとあたることだってある。今回はどうやら――」
ごりっ、と。
おれの後頭部に重く冷たいものが押し付けられた。
「――ハズレの方だった、ということだな」
すぐそこから響く、氷海を渡る風のように涼やかな声。そこには。
「……え? あの、お姉、さん?」
「フレイムアップ。裏の世界で人”災”派遣会社の異名を取る化け物どもの集まり。そのエージェントが乗り出してきたと聞いて、我々も相当警戒していたのだがな。どうやらとんだ期待ハズレだったようだ」
人質だったはずのお姉さんが、まったく無駄のない動作で、おれの後頭部に拳銃をつきつける姿があった。
「陽司!」
「動くな」
お姉さんは、おれの後頭部にさらに銃口を押し付けた。真凛の行動を抑制するもっともシンプルで効果的な方法。荒っぽい交渉に慣れきった振る舞い。
「……部下の腕を離せ。そしてゆっくりと両手を上に挙げろ。さもなくば君は、床に飛び散ったこの男の脳みそをモップがけで集めることになる」
「そりゃー、勘弁願いたいっスねぇ……」
おれの軽口も、いささか上滑り気味と自覚せざるを得ない。
「……くっ、……これで、いいんだろ」
彼女の指示に従う真凛。
「…~~ててて。ああ痛かった」
関節技から開放された男が立ち上がる。ち、こんなことなら最初に腕を折って無力化させておくべきだった。
「へっへ、どーよ俺たちの作戦は! どーよ!?」
「俺たち、ではなく、私の、だな」
一転して浮かれ始める男と、それを冷ややかに見据える女。つまりは。
「ですです! 全部祥子さんの作戦のおかげです! やっぱ祥子さんはパネェーっす! 俺一生ついていきます!!」
「任務中に本名を連呼するな馬鹿者」
「あ、ヤッベ、すんませんっス! ちゃんと仕事中は『白シャチ』って呼びます! 祥子さん!」
「本当にお前は……」
ため息をつく女性に対し、おれは声をかけ直した。
「訂正しますよ。今回は当たり、それも大当たりだ。おれもいろんなテロリストとやり合いましたけど、『白シャチ』、貴女は相当の凄腕のようだ」
「ホント凄腕だよ。……気配を隠すのも完璧だった。ボクがぜんぜん気づかないなんて」
使った作戦じたいは、おれ達もあちら側も大したものではない。――真凛に気配を悟らせなかった。その一点が、おれ達の致命的なミスであり、彼女の技量の証明でもあった。
と、
「うぐっ!」
真凛が床に倒れる。男が後ろから、背中を蹴り飛ばしたのだ。
「何俺っちのこと無視してんだぁこのガキ! よくも腹殴りやがったなテメェ! 十倍返しだ、顔が変形するくらいボコにしてやっかんな! 覚悟しろオラ!」
床に倒れ込んだ真凛を、蹴り、踏みつける。
「くっ……!」
「……おい」
実際の所、内功だの骨格操作だのが出来る真凛のことだ、素人の蹴りなど百発もらっても無傷だろうが、顔を蹴ろうとしているのはさすがに調子に乗りすぎというところだろう。
「へへー、祥子さん! 見てて下さいよ俺の活躍。今回のヤマを片付けたら俺も晴れて、アースセイバーの正規職員だ!」
緊張状態から開放された反動か、男のテンションがおかしくなっている。どうやら男の方は見立て通りほぼ素人で間違いないようだ。
「山本」
「光栄っすよー俺も祥子さんの白シャチ伝説の一部になれるなんて。ニートしてた俺がアースセイバーに入ろうと思ったのも祥子さんの活躍をマジレスペクトして……」
「やめろ」
「え。いやでも今いいとこで……」
「やめろ」
「…………サーセンっす」
叱られた犬のように黙り込んだ男……山本某を横目に、お姉さんこと本物の『白シャチ』は、この場を制圧した支配者として、悠々と状況を進行させる。
「さて。これでようやく話し合いの準備が整ったわけだな」
「わけ、ですねー」
「交渉を始めようか」
「はは、は。……オテヤワラカニ」
『白シャチ』が真凛を見据える。
「お嬢さん」
「む。……なんだよ」
「君はこの青年と入れ替わりに人質になれ。そして青年」
「ハイ」
おれは両手を上げたまま、視線を遠くに飛ばした。嗚呼、楽な任務って、この世界のどこかにないものかなあ。
「君は弁が立つようだ。依頼人の元に逃げ戻って、今から二時間以内に死ぬ気で我々の脱出手段を用意しろ。さもなくばここの魚たちは、今日の夕食を君のパートナーですませることになる」