EX3話:『アボーティブ・マイグレーション』06
「……わたし……いき……てる……?」
それは海で起こった、小さな奇跡。
だけど、私の人生を変えた奇跡。
そう。
その奇跡が忘れられないから、私は――
『”シャチについて”――続き。
ちなみにこの『回遊』ですが、本来回遊する力を持たない生き物が、海流に乗って一万キロ以上の旅をすることがあります。
この場合、その生き物には元いた場所に戻る力を持たないため、殆どの場合は新しい環境に適応することができず、やがて死滅してしまいます。
これを死滅回遊……『アボーティブ・マイグレーション』と呼びます。
解説の続きを聞きたい時は、次のボタンを押して下さい』
のんきに館内放送が解説を続ける中、七瀬真凛はみじろぎした。
手錠をかけられた上に、全身ロープでぐるぐる巻き。漫画のような格好で、水族館の床に転がされている。
『白シャチ』のロープワークは大したもので、先日ある中国拳法使いとの戦いで盗んだ内勁で引きちぎろうとしてみても、あるいは柔軟性を生かして抜けようしてみても、動けば動くほど生き物のように食い込んでくる。しばらくの試行錯誤が徒労に終わると、ぼんやりと 天井の水槽をながめるしかなかった。
人間どもの醜い争いなど歯牙にもかけず、悠々とうねり横切る魚群。海を透過した陽光を弾く、金色、紅、紫、エメラルド。
魚の名前には興味を持ったことがなかったが、ふとこうしてみると、名前や生態を知っていれば、それを鍵としてもっと色々なすごさ知ることができたのではないだろうか。「知識は人生の解像度を上げるためにある」とかなんとか陽司は言っていた。当の本人はやたら雑学に詳しい割には、あんまり人生楽しそうではないけれど。
「ハッハー、いいザマだなガキ。まっ、さっきもマジでやってれば俺が勝ってたがな!」
山本、とか言ったか、先程の男が近寄ってくる。
柄にもない思考をそっと脳裏にしまい込むと、真凛は冷たい笑みを浮かべてみせた。ここからは自分の領域だ。
「へへん、出来やしないくせに」
「ンだとコラ?テメェなんぞ祥子さんが止めてなきゃ秒殺だぞ?ビョーサツ」
「じゃあ、今から試してみる?」
本人はあまり意識していないが、七瀬真凛の冷笑の表情は、普段の闊達な表情からの落差と、本来の端正な顔立ちとの相乗効果で、挑発として有効すぎるほどだったりする。自分から絡んできたくせに、山本某はたちまち頭に血を上らせた。
「……おンもしれぇ、やったろうじゃねぇか!」
山本が近寄ってくる。
三歩、二歩、
よし――
「やめろ山本」
それを遮ったのは『白シャチ』の声だった。周囲を哨戒していたはずだが、戻ってきたらしい。
「祥子さん! だってこいつが!」
「実際その子はお前に飛びかかって首を食いちぎるくらいのことはやる。わからんのか?」
「んなっ?」
「お前を挑発して、自分の距離に入ってくるのを待っているのだ。――そうだな?」
真凛は舌打ちする。
「……カンがいいんだね」
「こういう仕事をしていると、嫌でもカンは鋭くなる。とにかく、余計な小細工はしないことだ。あまり変なことを考えるようでは、私は君の両膝を撃ち抜いて確実に動けなくしなければならない」
淡々とした宣言。それは脅しではなく、事実だった。
「ちぇ、わかったよ。貴女はたぶん、やると言ったらやる人だ」
この女性は残酷な性格ではなさそうだが、必要とあらば残酷なことができるタイプだろう。
「――そう見えるか?」
「え?」
思わずそんな声を上げてしまったのは、『白シャチ』の口調にぞっとするほど熱が欠けていたからだ。だが『白シャチ』は真凛から視線をそらし、
「山本」
「はいなんでしょうっ!」
「念のためだ。ホールを巡回してこい。カメラ、空調もな」
そう指示を下した。
「了解でッス! 行ってきまーす!」
尊敬する『白シャチ』から指示を受けたのがよほど嬉しかったのか、山本某は張り切ってホールを飛び出していった。
騒がしい男が出ていってしまうと、ホール内は沈黙に包まれた。
天井に膨大な水塊があるからなのか、どことなくただの屋内より沈黙も重く感じられる。
誰も言葉を発さず、館内放送と、対流する海水の音だけがホール内に響く。仰向けに寝転んだまま、またガラスの天井を見る。
「きれい……」
華やかな熱帯魚の群れ。ゆったりと泳ぐエイやサメ。魚を下から見上げるという、現実離れした光景。自分の置かれた立場を忘れて、真凛は思わずつぶやいていた。
「ダイビングの、写真みたい」
傍らで銃の点検をしていた『白シャチ』は、なぜかその言葉を聞きとがめたようだった。
「……君。名前は?」
「む。……敵に名乗る必要はないと思うけど?」
ゆるんでいた気を引き締める。荒事続きで感覚が麻痺しているが、これはピンチなのだ。すると。
「それはそうだな。ではこれでどうだ。私の名前は水城祥子。君の名前は?」
そんなことを言った。
「ぐ。……真凛。七瀬真凛だよ」
敵地で名乗るほど愚かではないが、名乗られて応じぬは武に生きる者の恥である。
「真凛、か。――では真凛君、君はこの海を見て、どう思った?」
「どう思う、って。それは、凄くきれいだと、思うけど……」
『白シャチ』は銃を下げ、ひとつ、大きなため息をついた。
「すまなかったな」
「え?」
「部下が手荒な真似をした」
その言葉には、真摯な謝罪の念があった。むしろそれがより一層、真凛を混乱させた。
「い、いやいや。そこは別に謝るところじゃないですよ!それを言うならボクもあの人思いっきり殴っちゃったし。何だっけ、うん、えーっと、そう、『仕事だし仕方ねぇ』ってヤツです」
亘理の口調を真似てみたが、成功したとは言えないようだった。『白シャチ』は小さく苦笑する。
「そうか。ならすまないが、もうしばらく、おとなしく人質としての仕事をまっとうしてほしい。今頃は君の相棒が必死に知恵を絞っているだろうからな」
「は、はい」
……なんか、調子くるっちゃうなあ。そう思い視線を逸らすと、
「うひゃあ!?」
「どうした?」
「い、いや今、ボクの顔のすぐ側を蛇みたいなのが!」
水槽の水底部分に積もった泥から、細長い奇妙な紐のようなものが飛び出し、ゆらゆらと揺れていた。
「……って、なんだ。びっくりした。水槽の魚かぁ」
「チンアナゴだな」
「ち……ちん、あなご?」
「琉球列島やインド洋に広く分布するアナゴ科の海水魚だ。犬の種類、チンに顔が似ていることから、チンアナゴの名がついた」
知識をひけらかす風でもなく、淡々と述べる『白シャチ』。
「へぇー、詳しいんですね。テロリ……あ、いや」
「テロリストのくせに、か?」
ガラス面の向こうのチンアナゴがゆらゆらと揺れる。
「うあ、その、あの……ごめんなさいっ!」
別に謝る必要はなかったはずなのだが。
「これでも自分からテロリストと名乗ったことはない。公式の身分は、環境保護を目的としたNPO法人、アースセイバー所属のいち職員だ。住む所もあれば給料ももらっているし、選挙権だってある。もっともとんと行使してはいないがね」
「じゃあ、なんでテロなんて!」
このアルバイトに従事してから、テロリストという人間と矛を交えたことは何度かある。だが彼女は――少し違う気がした。
「『仕事だし仕方ねぇ』」
「う」
言葉に詰まる。泳ぎ去ったはずのナンヨウマンタが、大きくカーブを描いて再び頭上をよぎった。
「……そういうことだ。世界の巨悪に立ち向かうため、日々ささやかな抗議の声をあげる。それが我々の仕事だ」
水槽の向こうで、大きな泡の塊が弾けた。ごぶごぶという重い音が、静かなホールに響く。
「――さ、与太話は終わりだ。私はテロリストの。君は人質の。仕事を互いに全うするとしよう」
「あ、あの!」
「ん?」
あとになって思えば、なんでここで彼女に声をかけたのか。
「……なんで『白シャチ』なんですか?」
「なんで、とは?」
「いやだって、シャチってでっかくておっかないってイメージじゃないですか。クジラとか襲って食べちゃうんですよね?そりゃ貴女はおっかないけど、……あ、いやその。なんかイメージ違うかな、って」
「それは誤りだ。シャチは凶暴ではない。高い社会性を持ち、家族や民族と言った概念すら持ち、一年を通して世界中の海を回遊する。人に害を為すことは殆どない。近づくとすればむしろ好奇心だな。クジラを襲うことはあるがね」
やはり淡々と述べる。それは明らかに、専門に学んだ者が当たり前の知識を伝える口調だった。
「そ、そうですか。意外と穏やかなんですね。でも、世界中の海を回るなんて、道に迷いそうだなあ」
「――『死滅回遊(アボーティブ・マイグレーション)』」
淡々とした口調。だが、わずかに冷笑的(シニカル)。
「え?」
「回遊する力のないものが遠出をすると、ろくなことにならんのさ」
「え、えっと?」
「……いや、なんでもない。それにな、実際の所は語呂合わせだ」
「語呂、合わせ?」
わずかな冷笑は消え、その分だけ、少しあたたかいものが混じった。
「本名は水城祥子と言ったろう? みず『しろ』、『さち』こ。それで『白シャチ』」
「しろ、さち……白シャチ。そんな、安直なんですか?」
「コードネームの由来なんぞ、だいたいそんなものさ」
「……はは」
真凛が笑った。あたたかいものが、少し増えた。
「……はは」
白シャチも笑う。
「ははは」
ホールにかすかに二人の笑い声が響く。
ナンヨウマンタを追いかけるかのように、今度はジンベエザメが天井を縦断していった。