EX3話:『アボーティブ・マイグレーション』10
『”シャチについて”
――恐ろしいハンターというイメージのあるシャチですが、決して凶暴な動物というわけではありません。
人間に対して危害を加えることはなく、こちらに近寄ってくる時は、好奇心であることが多いでしょう。
以上で、シャチの解説を終了します。皆さんも、シャチを怖がらず、ぜひふれあってみて下さい』
「――その通りだ」
『白シャチ』は大きくため息をついた。
先程まで冷徹なまでに場を支配していた圧が消えると、そこには年齢相応の、優秀だが仕事にやや疲れた若い女性が一人、いた。
「私がアースセイバーから受けた指示は、この原発を爆破して、深刻な放射能被害をまき散らすこと。電力会社はな、アースセイバーの要求した寄付金を用意できなかったのだよ」
「……昨今の電力会社の経営は相当厳しいらしいですからね」
脳内に保存した太平洋電力の帳簿をざっくりと検分する。電力会社というものは企業の規模が大きく、しかも毎日人々がかならず使う電気を売っている以上絶対安泰……というわけでもなく、電力を安定的に供給するためのインフラコストなどの出費は莫大なものとなる。発電に必要な燃料の高騰や、原子力発電への反対による稼働停止などの要因がかさめば、容易に赤字に転覆しうる。そしてそんな状況下では、カネ使いみちのには厳しくなる。おおかた、今までは太平洋電力のどこかの部門が、上に内緒でなあなあで寄付金を支払っていたものが、チェックが厳しくなって通らなくなったというところか。
「そのペナルティとして、原発の破壊が選択された。……寄付金を払わなければどうなるか、他の企業に対する見せしめだ」
「で、全ての罪をかぶるのが、そこで倒れている男性というわけですか」
幸せそうに昏倒している山本某を見やる。本人はアースセイバー所属の見習いというようなことを言っていたが、調べてみたところ職員名簿に彼の名はなし。
「ああ。アースセイバーと無関係な過激派が自爆テロを行ったということになる。警察が不審に思って調べた時には、彼と我々をつなぐデータは完全に抹消された後だ」
「ホントヤクザのやり口ですね。そして貴女は指示通り爆弾を仕掛けた。あとはさっさと撤収すれば良かったのに、なぜ途中で止めて、こんなところに?」
そこは率直な疑問でもあった。彼女が任務を的確に遂行していれば事は達成され、そもそもおれ達が呼ばれる機会すらなかったのである。
「それは、」
「もしかして。海を、見たから――ですか?」
真凛の声。
おれにはさっぱりだったが、何かしら会話でもしたのだろうか。
「――間抜けな話だよ。放射能をまき散らすのが嫌なら、最初からなんとしても指示をつっぱねればよかった。そして一度受けたのなら、最後までやり遂げるのがプロだ。だが実際に海を目にした時、無様にも迷ったのさ。本当に、本当にこの海を汚してしまってもいいのか、とね。そしてうだうだと迷っているうちに警備員に見つかり……この様さ」
「それで合点がいきましたよ。立て籠もっていたのは時間稼ぎかと思っていたんですが、そうじゃない、先延ばしだったというわけですね」
前半の緻密な作戦と、後半の不可解な行動の落差に深読みをしすぎてしまったというわけだ。……まあこんなもの予知能力でもなければわかるはずもないので、自分の失点にはカウントしないことにしておく。
「――その通りだ。決められなかったのだよ! 爆弾を爆発させるべきか、止めるべきか。この期に及んで!! ……シャチはな、この世界の海を回遊する。だが知っているかね? 力を持たない生き物が回遊の真似をすると、とても悲惨なことになるのだよ」
「……アボーティブ・マイグレーション、ですか」
その概念は知っていた。海洋生物の末路、たしか――
「ハ! フレイムアップのエージェントは博識だな。そう。私は海を回遊するシャチではない。海流に乗って彼方へ流され、戻るべき場所も忘れそこで滅びる生き物だ」
よくわからんが、彼女は自分を滅びるべき存在と考えているようだ。さてどう説得したものか。――と。
「戻るべき場所を忘れた? 何言ってるんですか」
唐突に横から割り込む声。
「え?」
床に視線を落とす。ロープでぐるぐる巻きにされた状態から声を上げていたのは誰あろう、うちのアシスタントだった。
「そんなもの、祥子さんは最初から自分でわかってるじゃないですか」
「何だと」
「祥子さん、言ってたじゃないですか! 海を守るため、奇跡を守るためにこの仕事を始めたって!」
真凛は怒っているようだった。
付き合いはそれなりに長くなっているが、あれ程の怒りを顕にしている真凛は初めて見た。卑劣な手段を用いる敵対者に怒ることもあったが、それでもここまでではなかったと思う。
「それは発端にすぎない。もう私はそこから随分と道を踏み外してしまった」
「間違ったら、今から直せばいいじゃないですか!」
「真凛君……」
「本当に道を踏み外してしまったなら、そもそも迷わないじゃないですか。祥子さん、貴女が本当に守りたかったものの敵は、誰なんですか!それに目を瞑って無理矢理仕事をしても、きっと後で、後悔するんじゃないでしょうか!戻る場所を忘れたんじゃない。道を間違えたことを認めて引き返すのが怖いんじゃないですか!?」
「おい、真凛……」
コイツ、こんなに雄弁だっただろうか。
「……ごめんなさい、余計なことを言いました……」
はっとして、赤面する真凛。
おれはといえば、アシスタントの思わぬ熱弁にすっかり面食らってしまい、間抜けに黙り込むだけであった。
沈黙。
砂底から顔を出したチンアナゴと、目があった。
「――解除コードは46487だよ」
「え?」
脳内で必死に『白シャチ』との交渉材料を探していたおれは、間抜けな声を上げてしまった。
「三秒ごとに間隔を置いて、スイッチを押し込め。一部アナログ式だ。装置を揺らすなよ」
「あ、ああ……」
おれは携帯端末を操作する。真凛の叫びのどこがどう『白シャチ』に響いたのかはわからなかったが、ここに来て偽情報を出す理由もないはずだった。
「聞こえてるかマクリール。ああ。処理班に伝えてくれ」
リアクションを待つまで大した時間は必要なかった。数分の沈黙の後、携帯端末に簡潔なショートメッセージが数本入った。
「……解除できたそうですよ」
「……そうか」
おれが告げると、『白シャチ』はかすかに気配を緩めた。
まだことの背景はあまり理解できていなかったが、爆弾というもっともクリティカルな問題は、これでクリアできたことになる。これはうちのアシスタントのお手柄ということになるのか。
「よかった……。ありがとう、祥子さん!!」
『白シャチ』はナイフを取り出し、真凛に巻きつけられていたロープを切った。
「行くがいい。交渉は終了だ」
「うん……」
立ち上がり、ラジオ体操で体をほぐしている真凛を尻目に、おれは『白シャチ』に話しかける。
「さて。これからどうしますか、貴女は」
「どうするのだろうな、私は」
「おれ達の仕事は爆発物をどうにかすることだ。ここから貴女達と喧嘩をするつもりはありませんよ。でも……自首するんだったら、つきあいますけど」
通常おれ達の仕事で、よほど言い訳の聞かない状況でもない限り、捕らえた相手を警察に突き出すような事はない。どちらも、任務で雇われた代理人という立場だからだ。だが……。
「ご親切にどうも。だが遠慮しておく。私も捕まるわけにはいかない」
『白シャチ』はかぶりを振ると、銃を内ポケットにしまった。
「もう、やめましょうよ! こうなった以上、アースセイバーに戻ったって……」
真凛の声に、はっきりと苦笑する『白シャチ』。
「そう言うな真凛君。逮捕されてぺらぺら内部情報を喋るには、私はアースセイバーの給料を長く貰いすぎた。ケジメをつけるさ。本部に戻って失敗を報告――」
ぱん、ぱん、と。
場違いにも思える火薬の破裂音が、ホールに響いた。
「な?」
「えっ!?」
銃声だとはすぐに気づいた。問題は。――おれと真凛は互いを見やる。つまりはどちらも無事。となると……!!
「か……、はっ」
肩と、太腿を血に染めた、『白シャチ』の喘ぎ。背後からの銃撃への驚愕の表情。
「祥子さん!」
おれは舌打ちとともに視界を後方に向けた。彼女を銃撃できたのは、当然一人しかいない。そこには、いつの間にか意識を取り戻した山本某が、拳銃を手にして立ち上がっていた。
「何言ってんですか祥子さん。白シャチは絶対任務に失敗したりしねえ。そんなこと、へへ、あるわけないじゃないッスか……!」
笑う山本某。痙攣した口元から涎がひとすじ垂れている。もともと緊張に弱いタイプが極限状況に長く置かれ、かつ憧れの人の裏切りともとれる言葉に、精神が耐えられなかった、そんなところか。
不覚にもほどがある。『白シャチ』との交渉に注力して、完全にマークから外していたのだ。気絶していたのもあるが、もはやこいつに何が出来るはずもないと油断していた。
「よせ!……山本!! やめろと……言っている!」
「やだなあ祥子さん邪魔しないでくださいよ……!!」
よろめきながら取り押さえようとする『白シャチ』を、山本某が振りほどく。床に倒れる『白シャチ』、おれ達に銃口を向ける山本某。
「陽司、下がって!!」
「ちっ!」
咄嗟に真凛の背後に周り、前衛と後衛でフォーメーションを組む。
山本某が発砲した。二発、三発。最悪被弾も覚悟したが。
「……下手くそめ!」
おれは毒づいた。素人の山本某の発砲はおれ達にはかすりもしなかった。それはいい。だが問題は、見当外れの方向に飛んだ銃弾の一発が、ホールの巨大水槽を形成するアクリル板に命中していたのだった。
「まずい、水槽が!」
強化アクリルは膨大な水の質量にも耐えうる。だがそこにヒビが入れば、負荷は一気にそこに集中し……。
「このっ……!!」
「動くんじゃねえ!これを見ろぉ!」
掴みかかろうとする真凛を制して、山本某が掲げたもの。それを見ておれはまた舌打ちする羽目になった。
「あれは!?」
「爆弾か。まだ持ってやがったのか!」
「そうだよ、小型だがなァ、この水族館を吹っ飛ばすくらいの威力はある!」
……やれやれ。
おれは肩の力を抜いて、片目を閉じる。
今回は使わずに済むと思ったのだが。って、毎回このセリフ言っている気もするな。
片目をつぶるのは速度優先。遮断した視界に内面世界を描き、『鍵』にアクセス。
『亘理陽司の――』」
「やめろ……、お前ではここから逃げられない……それにもう原発の爆弾は停止した……今さら……」
『白シャチ』の声も、山本某にはもはや届かないようだった。
「ははははははやだなあ祥子さん、俺だってそこまでバカじゃねぇっスよ~。原発はもう爆破できない。だけど! いい考えが! あるっす! おれ達が戻らなきゃ、任務失敗にならないでしょ?」
「ちょっとアンタ、まさか!」
水面の向こうで交わされる会話を背に、意識の水底へと潜る。
『指さすものの――』
「白シャチ伝説は終わらねえ。今、ここで! 永遠になるんだ……!」
山本某が、親指の起爆装置を押し込む――
「『爆発を禁ずる!!』
直前に、おれの『鍵』が完成した。
「……あ?」
起爆装置は無反応。
大量の水がある地下エリアだ。電波の接続が悪かったとか――そんな感じで辻褄を合わせたのだろう。
「な、なんでだ、なんで爆発しねぇ? お、お前、何かしたのか!?」
答える必要はない。そして、真凛に指示を出す必要もなかった。
一拍の隙は、武術の達者が距離を詰めるのに十分すぎた。
「ま……」
「せいやあっ!!」
十分な加速を些かも殺さず、クロスボウの矢めいた飛び足刀が、山本某の胸板に叩き込まれた。
「ぐわぁあーっ!」
絶叫を上げて通路の奥に吹き飛んだ山本某は、そのまま壁に叩きつけられて動かなくなった。
「よっし!」
ガッツポーズするお子様。
確かに成長は見て取れる。以前だったら足刀は胸板ではなく首筋に決まっており、体ごと吹っ飛ぶのではなく頚椎が奇麗に折れていたであろうから。
「それが……君の……」
「……えー、まあそんなところです」
最近タネが割れ勝ちとはいえ、自分の切り札について解説するわけにもいかず、おれは言葉を濁した。
「陽司、大丈夫!?」
「ああ、こっちは問題ない。……けどよ、アレ」
駆け戻ってくる真凛に、親指で指し示す。
「うそ、水槽のヒビが、どんどん大きく……!?」
そう。莫大な水の質量を支えきれなくなったアクリルに亀裂が入り、それは加速度的に大きくなっていった。スマホの落としたときの液晶のアレを超拡大したものが、びしり、びしりと音が鳴るたびに倍々に規模を広げていった。
水槽の魚達が、一斉に逃げ散り始める。本能的にこれから起こることに気づいたのだろう。
おれは身を翻すと、水族館入口に向かって駆け上がる。
「やっべえ戻るぞ、駆け上がれ!」
真凛に声を。おれの脚力ではいちいち立ち止まっている猶予はなかった。
「でも祥子さん達が!」
「早くしろ、水槽が砕ける!!」
おれが真凛の腕を引いて強制的に走らせるのと、ついに圧力に屈したアクリルが剥がれ、大量の水がなだれ込んでくるのはほぼ同時だった。
水の圧力がさらにガラスを押し砕く。
十秒もたたない間に水族館の床は濁流に呑まれた。
水は上にも横にも無限にある。ガラスは更に砕け、ドーム状の巨大水槽は粉々に崩壊しただろう。おれたちは受付エリアまで階段を駆け上がり、海抜より上の高さに逃げ込むことはできたが、床に倒れ込んでいた二人は、流れ込んだ水にもろに巻き込まれたはずだ。
『緊急放送。館内で重大な災害が発生しました。係員の指示に従い、速やかに避難してください。繰り返します。緊急放送。館内で重大な災害が発生しました。係員の指示に従い、速やかに避難してください……』
けたたましいサイレンと、延々とリピートされる館内放送。
「そりゃ係員がいればいいけどよ」
一気に階段を駆け登る酷使に抗議する心肺を押さえつけながら、おれはぼやいた。
常ならば訓練どおりに避難誘導やセーフティの発動が行われるのだろうが、良くも悪くもここにはおれ達しかいないのであった。
「祥子さん!!」
真凛はもと来た通路の奥に向かって叫ぶ。答えは、奥から轟く水音だった。もう通路の奥にあった空間は、大量の海水に埋め尽くされている。
おれは通路の奥にしばらく視線を注いだあと、深呼吸をして、気分を切り替えた。
「よっし、任務しゅーりょー。おれ達も撤収すっぞ」
「陽司! 祥子さんが! 助けないと!」
真凛がおれの肩を掴みまくしたてる。その手を外してたしなめる。
「そりゃーおれ達の仕事の範疇じゃねぇな。さ、戻った戻った」
「……本気で言ってるの、ソレ?」
真凛がおれを見つめる。怒って、はいなかった。おれは目を伏せて、肩をすくめてみせた。
「じゃあ今からホールの濁流に飛び込んで彼女を助けるか? プロのライフセーバーでも無理だぜ」
「それは……そうだけどっ!」
「ハイ復誦。おれ達はヒーローじゃなくて派遣社員。働くのは?」
おれが指先を立てて促す。
別に意地悪をしているわけではない。これは心構えなのだ。
いつか、判断を誤って不必要に相手の事情に深入りしないための。
「給料分、まで……」
真凛は悔しげに、俯いた。
「そういう事」
うむうむ。おれは己の指導が行き渡った感慨に一通りふけったあと。
「だ、か、ら。お前も給料分くらいは身体を動かせよ!?マクリール!」
天井に向けて怒鳴った。
「へっ?」
真凛がおれの視線につられて上を見上げる。そこには、未だ緊急放送をリピートし続けている館内のスピーカーがあった。
『……な災害が発生しました。係員の指示に従い、速やかに避難してください。繰り返します。緊急放送。館内で重大な災害が――、――、――ふむ。では私も、たまには肉体労働にいそしむとしよう』
「……ええっ!?」