終末期について思う事
仏教のことを少しずつ学んでいます。「最後はみんなが久しく孤独になる」。そんな言葉が心に浮かびます。その中で、信じる何かがあった方が安心できるのではないか、不安が減るのではないかと考えることがあります。
仕事柄、最期の時を家族様と一緒に過ごすことがあり、そのときの心持ちをどうしたらよいのか悩むこともあります。答えは一つではなく、状況や人によって変化していくものだと思いますが、心のよりどころとなる何かがあってもいいのではないかとも感じています。人それぞれの形でよいのだと思います。今回は仏教にその拠り所がないか考えてみました。
生老病死(しょうろうびょうし)とは?
「生老病死」とは、仏教の基本的な教えの一つで、人間が避けることのできない「4つの苦しみ」を指します。この考え方は、私たちの人生における根本的な真実を示し、誰もが向き合わなければならない課題を表しています。仏教では、これらを理解し、受け入れることで、苦しみから解放される道を目指します。
1. 生(しょう) - 生まれることの苦しみ
「生」は生命が誕生することを意味します。一見、喜ばしいことに思えますが、仏教では「生きること自体が苦しみの始まり」とされています。なぜなら、命が生まれることで、やがて「老い」「病気」「死」といった避けられない苦しみを経験するからです。
具体的には、生きるために必死で努力しなければならないこと、他人と比べたり、思い通りにならないことへの葛藤が含まれます。つまり、「生きること=苦しみの出発点」と位置づけられています。
2. 老(ろう) - 老いることの苦しみ
「老」は加齢による変化や、それに伴う苦しみを指します。人は誰しも老いることで、身体や心が若い頃のように自由に動かなくなります。例えば、体力や記憶力の低下、外見の変化、人間関係の変化などです。
老いることで、過去の自分とのギャップに苦しみを感じたり、未来に対する不安を抱えることがあります。また、老いは人間関係にも影響し、孤独感や役割を失うことによる苦しみも含まれます。
3. 病(びょう) - 病気になることの苦しみ
「病」は、病気や怪我など、身体や心が健康を失うことで生じる苦しみです。病気になると、自分の思い通りに体を動かせなかったり、痛みや苦しみに耐えなければならなかったりします。
また、病気は身体的な苦痛だけでなく、精神的な不安も伴います。たとえば、「この病気が治らなかったらどうしよう」「家族に迷惑をかけたくない」といった心の苦しみも病に含まれるのです。
4. 死(し) - 死ぬことの苦しみ
「死」は命が終わることであり、人生における最大の苦しみとされています。死そのものだけでなく、「死にたくない」という恐怖や、「愛する人と別れること」への悲しみ、「これからどうなるのか分からない」ことへの不安が含まれます。
仏教では、死は特別な終わりではなく、生きることの延長線上にある自然な出来事とされていますが、私たちが死に対して不安や恐怖を抱くのは、「執着」によるものと説明されます。
生老病死が伝える教え
仏教では、「生老病死」は避けられない現実であり、誰もが必ず経験するものです。この教えは、これらの苦しみを否定するのではなく、「受け入れ、苦しみを超えるための智慧」を持つことが重要だと説いています。
無常の真理
「すべてのものは変化し続ける」という無常の考え方に基づき、生老病死も自然の一部と捉えます。これを受け入れることで、苦しみへの恐れや執着から解放される道を見つけられます。執着を手放す
苦しみの根源は、「若さを保ちたい」「健康であり続けたい」「死にたくない」といった執着にあります。仏教では、これらの執着を手放すことで心が軽くなり、穏やかに生きられると説いています。苦しみを超える道
生老病死を受け入れつつも、どう生きるべきかを考えることが仏教の実践です。八正道(正しい生き方の道)を学ぶことで、苦しみを軽減し、心の平穏を保つ方法を探ることができます。
現代社会における生老病死の意義
現代では、医療やテクノロジーの発展により、「老いや死」を避けることが目指される風潮があります。しかし、これらの苦しみは完全に取り除くことはできません。生老病死の教えは、これらを避けるのではなく、自然な一部として受け入れ、日々の生き方を見直すための指針となります。
生老病死を理解することで、「今を大切に生きる」という仏教の教えに繋がり、苦しみの中にも意味を見出すことができるのです。
いつ死んでもいいと思えるぐらい、「今を大切に生きる」生ききるという部分では、最後の時の表情を見えれば、生ききったなと思うことがあります。
生老病死と認知症
介護施設で認知症の方を看取らせていただく際、認知症が重度になると、自らのことを言葉で伝えることが次第に難しくなることが多いと感じます。それでもなお、表情は穏やかだったり、苦しそうだったりと、さまざまな形で何かを発信されていることに気づきます。
食事がとれなくなり、命の灯火が少しずつ弱まっていくその時期になると、私はその個人と世界との境界線があいまいになっているように感じるのです。今までいろいろな色で彩られていたその方の存在が、限りなく白色に近づいていく感覚があります。「血の気が引く」という言葉が示す顔色の青白さや顔面蒼白といった身体的な状態だけでなく、雰囲気やその方を包む空気感までもが白くなり、次第に「0」に近づくような印象を受けるのです。それはまるで「無」に帰るような感覚です。
このような瞬間に立ち会うたび、私は畏怖の念を感じます。それは、人間がどうしようもない大自然の摂理、抗いようのない命の流れを目の当たりにするからです。それと同時に、表情が穏やかな方がほとんどであることに、ほっとする気持ちや「生ききられたのだな」という安堵も感じます。
認知症の方が、この過程を通られるとき、私は「今まで持っていたものを忘れていく」という現象を「荷物を下ろしていく」ことに重ねて考えます。それは、執着を一つずつ手放し、「仏になる」道の選択肢の一つなのではないかと感じるのです。学びを重ねていく中で、このような捉え方が自然と浮かんでくるようになりました。