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蝸牛の歩み

「記憶の図書館」  第30日

「歴史について」

これは期待できると勢いこんだんですが、それほどでもなかったが、いくつかボルヘスの本音が垣間見られた。ギボンから入っている。「ギボンは検閲の時代に生まれて、アイロニーで語ることを強いられました。仄めかしでものごとを語るよう強いられたのですーーでもこれは最も力強く効果的に語る方法でもあります。ヴォルテールは制限のあることでむしろ巧妙な作風の作品が書けるということからか検閲を称賛するまでになった」と述べ、ヴォルテールは「自由が許されれば何もかもそのままーーつまり最も弱い形で語るようになりますから。検閲ならば人に婉曲を、暗喩を、アイロニーを強いることができるというのです」と書いていて、これについてボルヘスは検閲の称賛は否定し「馬鹿げている」と批判している。さらにボルヘスは「国家は私にとって公の敵です」「望ましいのは最小限の国家と最大限の個人です」と述べていて、初めて国家の個人への介入に批判を表明している。しかしその先にボルヘスはそれを現時点の国家に対する姿勢を表明しているわけではなく、未来のこととしていて、「もっともわたしには国家のない世界はとても見られないでしょう」と述べて、さらにそれについては希望であり、進歩によって実現するという見解に終わっている。ボルヘスは「この進歩へのわたしの信念は、自由意志へのわたしの信念のひとつの形になっています」「歴史における進歩という概念は、個人の場合には自由意志という概念に当たり、その二つはわたしは同じだと思います」と語っている。歴史における進歩の概念は西洋中心の歴史から説き起こされる強固な概念で、まず正面から批判し難い。しかし、他の視点から疑義が示されていることをもっと私たちは学ばなければならない時点に来ている。その突破口になるのが、人類学からの見解である。自由という概念も西洋から見たら辺境であり、野蛮とみなされた部族社会の中の平等、民主主義、労働の協働などからの自由概念もあり、西洋の歴史だけではない歴史があるということを今やっと認知されてきている。これはボルヘスとは直接関係はないのだが、彼の言葉の端端に見られる西洋中心主義になぜか反論したくなる。

歴史家についてボルヘスは「いわば神性のように、事実を前に諦念し、それを賛美することも検閲することもなくただ言及するのです」「歴史家は運命に等しい公正さを持たねばならないでしょう。あるいは偶然に等しい公正さかもしれません」。歴史を著述することについてはマルクス主義歴史学からはすでに遠く離れてきている。その初めはアナール学派による歴史叙述であるが、これはすでに資料の詳細な分析を埋めるための歴史叙述がなされている。わたしが心酔するアラン・コルバンの著作がここにきて見直されている。「草野のみずみずしさ 感情と自然の文化史」や「記録を残さなかった男の歴史 ある木靴色人の世界」このような文学作品といってもいい歴史家による作品に心を打たれる。あるいはエーコの「薔薇の名前」だって、歴史書に近い。事実をより明確にするために歴史家はそこに介入する。歴史家とは歴史を十全に語る人であり、単に資料を並べる人ではなくなっているのである。

話が飛び飛びになっている。ここでギボンの文体についてに話が移っていて、「ローマ帝国衰亡史」は3度書き直されていて、ふさわしい語調、ふさわしい文体が得られることで書き継がれたらしい。その間にイスラムに関する章を書き足しているとのことである。大昔に読んだけれど、まるで覚えていない。ボルヘスは再び文体の重要性に戻り「自分のささやかな物語作家の圏内でも同じことが起こります。短篇や詩が適切な語調で始まってくれれば、あとは時間、忍耐、それから何よりも啓示を待つだけになります」と言っている。また対談者(フェラーリ)は「ギボンの著作は歴史でもあり文学でもあると思います。つまり歴史と文学を結ぶものではないでしょうか」と問いかけているのに対して、ボルヘスは「つまり文献を網羅的に研究することーギボンには18世紀特有の責任感がありましたーとそれらすべてを記述することとの結びつきですね」と答えている。さらにボルヘスは「実際に・・・歴史(イストリア)とは一篇の小説です。それは物語(イストリア)でもあります・・・英語の「ストーリー」は物語を意味していて、それは歴史(ヒストリー)の一つの形です。それが一つになったのです」。この語源からくる歴史と物語は同一という説はわたしは別の方から教えられていたのだが、ボルヘスが全く同じことを語っていて、あらららと思ったのだが、よく考えると、語源をたどるといく作業は、歴史理解の根本だし、それを語れば物語になるのも奇異ではない。しかしボルヘスがギボンを称賛する言にはまたしても西洋中心主義、ギリシア・ローマ起源論に起因してしまっている。「ローマはヨーロッパのあらゆる国の過去でありイギリスも例外ではありません」「ローマがスコットランドを征服しなかった理由として、ギボンはスコットランド人の勇敢さとともに、世界の主人としてのローマの矜持が、鹿を追うような貧しい野蛮な国まで征服することを潔しとしなかったということを挙げて言います(笑う)」とある。また「民主主義の理念はとても古いものです。政治的には私たちはそれに基づいて生活しています・・・プラトンとアリストテレスが夢見たようにです。でも彼らの民主主義は同じものでしょうか。わたしはそうは思いません。彼らのものは奴隷のいる民主主義・・・でも考え方は同じですし、もちろん民主主義(デモクラシア)という言葉も同じです。

さて、ボルヘスは進歩を夢見ている。しかし国家の存続は当然としていて、民主主義は奴隷が存在することを除けば現代と同じと見ているようだ。文学者に政治を語ることの重要性をわたしは強く期待しているが、どうしても表面的になってしまうのはなぜなのだろう?多様な民主主義にのあり方に目を向ければ、文学にもまた、それが反映される多様な世界文学が生まれる可能性があると思うのだが?


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