月欠損について色々思う事。
さあやってまいりました「月欠損」ッ!!
ぶっちゃけるぞぶっちゃけるぞぉ!!!(どうしたお前)
茶番は置いといて。やあどうも、常磐楓です。
お久しぶりです。色々期間は空きましたが私は元気です。
忙しかったわけではないのですが、少々休憩期間を過ごしていただけたらと思ったら幸いです。無理して書くことは無いと思っているのでね。
という訳で今回は温めに温めて、半ば腐らせている「月欠損」について好き勝手話していきたいなと思っています。
目次はこちら。
正直言って好き勝手言うだけなので内容はかなり薄いです。
有料情報という訳でもないので一般公開しますけども。
まあ雑多に話していきたいね。
ASC双子座らしく適当に軽ーく発言していきましょうや。
んじゃ、ほんへ。
れっつごー。
そもそも「月欠損」ってなんだ?
まず月欠損って何ぞよって話なんだが…
一言で言うと「月が示す事柄は人格上欠損するものである」という見方だ。
まあ「ないモノとして扱う」ってことです。
某先生は月を「嘘や虚構、思い込みを起こすもの」という捉え方をしており、その捉え方こそが月欠損のルーツであることは間違いないだろう。
しかし、youtubeの投稿動画内にて某先生は「月の迷いこそが本当の幸せへと向かう鍵である」と説いており、万人は月を「通過」するものだとしている。そして彼自身、月の年齢域である「幼少期」に月が露出することを否定してはいない。
だが結局「月=悪いもの」という構図が変わっているようには見えず、どのみち「自己嫌悪や不安感、劣等感の元凶である」という月に対する評価は変わっていない。
現代占星術における月の意味。
んじゃ、まず「月」という惑星がどういった象意を以って扱われているのかを出していこう。
月が示すものは「感情・プライベート・インナーチャイルド・深層心理・自身の本質・母親etc…」となっている。
月はいわゆる「内面」を示すものであり、「幼少期の自分自身」を表す惑星としての扱いを受ける。つまり「幼い自分」と称される「インナーチャイルド」の扱いが成されることもあり、「月を知る」事を掲げて鑑定やアドバイスを行う占星術士・鑑定士もいる。
つまり、通常の占星術における月という惑星の持つ比重はかなり大きいものだとみなされていたのだろう。月欠損論はそういった前提を覆そうとする前衛的な視点であったことが分かる。
月は大切にするべきだという思想がちらほらあったりするのと同時に、月は最も弱く、最も影響を受けてしまう惑星という性質を持つ。
「月を知る」という方向性。
「月を知る」という段階がある。
この段階を現代占星術と月欠損は共に推奨しているが、目的の違いは明白だ。これら二つにおける「月を知る」を比べてみよう。
現代占星術
=「月の本質を知り、自分自身を知る」
=「思うor思ってしまう」
月欠損論
=「月の虚構を知り、真実を隠すベールを剥がす」
=「思わされている」
となる。
ここであげる「思うor思ってしまう」・「思わされている」というのは、月星座が「無意識にやってしまう」行動や思想、事柄を表しているとされる為だ。
従来の月は、そういった行動を「インナーチャイルド(内なる自分)」によって引き起こされているのだと考えられている。社会的な姿を現す太陽と対になる「日常」が管轄となり、私たちが普段見せないプライベートな姿こそが月星座だとされる。
対して、月欠損論にて挙げられている「思わされている」。
こちらは、前述する通り「月はまやかしや幻想をもたらす」という視点を経ての考察となる為、月こそが「それをしなければいけない」「これが出来なければいけない」といった強迫観念や劣等感を生み出すものであるとしている。
さらに言うなら、
「月が示すのは『幼少の頃の自分』であり、まだ物心つかない時に出てくるものである。従って、『子供の頃の行動思想』を繰り返すだけとなり、発展性や成長が無い。」
とも挙げている。
両方、共に月について語っているのにあまりにも言っていることが違う。当時のTwitterで大いに賑わい、困惑し、混乱したことだろう。
現代占星術は「自らが宿すもの」
月欠損は「星に動かされる」
この前提が大きく、惑星一つ一つを「自身の要素」と捉える現代占星術とはそもそもの土台が違うことも見えている。
小宇宙(ミクロコスモス)と月欠損の視点
現代占星術では、「自分の内側に惑星が存在しており、そこから各惑星の性質やエネルギーが発生して、自身の思想や反応、行動に反映されていく」
これは、自らが星を宿す宇宙である事を例えて「小宇宙(ミクロコスモス)」という言い方をされる事がある。
トランシット(現行図)によって外部の影響を可視化したとき、アスペクトやコンジャンクションを通じて自身の惑星が何かしらの性質が生み出されていくことになり、それを「トランシットの影響」として解釈する。
対して月欠損の視点なのだが、こちらは恐らく「惑星を自分として捉えていない」事が見えてくる。どちらかと言うと「フィルターの種類とその性質」と言うべきか。
彼が月について語る際、「月を通して見る事柄は、人々にとっての虚構・嘘である」という捉え方がある。それは「月がフィルターとして機能している」とも考えているのではないのか。
そして、フィルターという事は光をもたらす存在があることが明らかだ。
私個人の感想としては、「半分同意で、半分疑心」だ。
半分同意に関しては「月に発展性や成長が無い」というのは意外と的を得ている意見だなと感じるからだ。これに関しては私自身の考察も含めて紹介していこうと思う。
月の示す事柄
私の考える月についてだが、今から述べることはあくまで「私個人の考察・感想」のようなものである。また、当時現代占星術メインで取り組んでいた為、現在執筆している私が挙げる意見との相違がいくつか見受けられる。
今取り組んでいる伝統的占星術の知識や視点を組み込みながらお話させて頂こうと思う。よろしく頼む。
まず月というものについてだが、月は「感情」や「日常」、「人との付き合い方」、「家庭環境」等を示すものだと捉えている。第一に挙げられるのは、「個人的な事柄を示す惑星であり、社会的な活動に対して積極的に参加するような印象が湧かない惑星」であることだろう。
性質としては「コールド・モイスト」。特に月自体が「水」の象意を持つ為、イメージには容易いだろう。太陽の性質が「ホット・ドライ」という真反対の性質、昼を太陽・夜を月が支配する事柄からも、古来から対に扱われてきたことは明白だろう。
なので、幼少期を示す「月」から社会的な事柄を示す惑星である「太陽」へと推移することは何ら可笑しい事でもない。我々は母親(としての愛)に依存していた幼少期を乗り越え、父親の厳しさ(条件付きの愛)を体験し、一つの社会的存在として成長していく。
その成長や人生の推移を無視しては、この月欠損は語れない。
これはユング心理学に基づく元型(アーキタイプ)である「グレート・マザー(母親)」や「オールド・ワイズマン(父親)」の役割を月と太陽がになっていることに基づく。
さて、人間の成長における段階において「月」から「太陽」への推移は必要なものであると仮定できた。
当時私の捉えていた「月」は
「月は育児や家事のようなもので、見返りや給与が発生しない。副次的に環境や居場所を整えたり、過程で満足感を得ることは出来るが、そもそも月そのものに社会的な成功を求めるものではない。」
といったものである。これは伝統的占星術を勉強する前に抱いていた意見なのだが、流石私である(自画自賛やめい)
少なくとも
「少し考えたら分かる事のはずなのになんで急に『月欠損』という名を付けて、それを世の中に広めようとしたのだろうか?」
という感想を抱いていた。
締めくくりとしては、「月にそもそも幸せを示すものではない」「満たすこと自体に意味はさほどない」としていたが、こちらは今現在の私との考え方の乖離が見受けられる。
今こうして時を経て感じることが「日常の維持が如何に難しいか」
日常を過ごすこと、家事や育児をして過ごすこと。上記で挙げたようにこれらには報酬や見返りと呼べるようなものはないが、少なくとも人間が人間らしくある為に必要なものであることは明らかだ。
「満たされる」ようなものではない。だが、「確かにそこに在るもの」ではある。そういった意味では、従来の月とも、月欠損ともなんだか少し違う視点なのは否めない。
自らがどんな時間を過ごしているのか、そしてその時間を共にする仲間や家族はいったいどんな人なのか。そして、命を吹き込むこと。それについて思い馳せる事こそが月という惑星を扱う上で求められる事なのかもしれない。
結局のところ月欠損というのは「過剰な月信仰に対するアンチテーゼのようなもの」だったのかもしれない。実際、某先生は「太陽を生きろ」とおっしゃられていた。ある種、アラン・レオの説いた現代占星術の本質へと戻そうとする動きでもあったのかもしれない。
月光反転法とかいうやつ
コイツもなかなか物議を醸しだしたような気もします。
確かこれは「月の反対側にあるサイン(ハウス?)こそが自身の本質・才能である」というやつだった覚えがあります。
要は月の反対側に自分自身の本質や才能、開運ポイントがあるんだよっていうやつです。
月が欠損している事柄を示すのなら真反対へと視点を移し、自らの幸福を見出そうという見方で、こちらはまた別の方が始めたものだったかな…?とあやふやな記憶を引っ張り出してみます。
その後、今現在でも「月反転ファッション」であったりとちょこちょこその影響をお見受けすることが有ります。
しかし実態としてはどうなのか?
私の主観に依存しますがそれについても語っていこうと思います。
自分の意見・所感
私の意見としては「ンなわけないだろ」になっちゃいます。
まず自分自身をチャート上で示す方法としては、「ASCとそれに重なる惑星、そしてそのロードにあたる惑星」という明確な定義がある。こちらはいわゆる伝統的な占星術の見方となっており、おそらく現代占星術においても適用できる捉え方だと実感している。
例えば山羊座ASCであれば、そのロードにあたる「土星」、そしてそのアングルと重なる惑星として金星があるのならその「金星」も自分自身を示す惑星として機能します。(1ハウス内の惑星でも可)
それら自身を示す惑星らがどういったレシーブ・リセプションを受け、またどういったディビリティを受けているのかといったチャート情報を整理し、その人が受ける影響を明確にしていくことが求められる。
というように、月以外にも自分の本質を示す惑星を見出すことが出来ます。
月自体も「自己(肉体)のナチュラル・ルーラー」として機能する為、もちろん自分自身を示す惑星として利用できますが、月の本質は「他惑星からのエネルギーや影響を受け取り、それを我々の住まう下界に投影する」という、ある種メッセンジャー的な役割を担当しているものとなっている。
こちらも伝統的な占星術の見方となる。
最初見た時、意外と月欠損もとい月光反転はそこまで筋違いな視点ではないようにも感じるが、そもそも月にそんな意味あったっけ???となってしまう事だらけで、当時より知識経験を得ている今現在の方が理解に苦しむ。
さらに挙げるなら「オポジションの利用を通してチャートのバランスを確保しているだけ」なんだろうなという所感を抱きます。割と単純な発想というか。
真反対というのだから、「オポジション」というアスペクトがカギとなるはず。一旦、オポジションとそれに関連した思想について語ります。
オポジションと『中庸』
オポジションというアスペクトの性質は「2」という数字で表される。
オポジションは「対立・敵対・拮抗」を意味するものであると同時に、「理のバランスを保つもの・物事の均衡を得る」という側面を持つ。
こちらが存在する(事が確か)なら、向こうもまた存在する。そういった相関を見出せるアスペクトであり、ウィリアム・リリー氏の著書『クリスチャン・アストロロジー』においても、「オポジションにあたるサインを認識できなければ、リーディングはおろか、チャート作成もままならない」と説く。
(まあ当然っちゃぁ当然ですけど。)
アスペクトの本来の定義に則るのなら、コンジャンクション(合)はアスペクトではない為、このオポジションが最も強烈に作用するものとして挙げられる。
かの人ら(私たちが古典と呼ぶ時代を生きていた人たち)が重要視していた思想がある。それが「中庸(ちゅうよう)」だ。
「どちらにも偏ることなく、過不足もなく、調和がとれている事」を指すこの「中庸」は、中国思想の一つである「儒教」を起源として古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスを始めとした知識人らが唱えた概念である。
少なくとも、チャートの中での「尖り」があるとして。中庸を軸としてホロスコープを見るならば「偏り・不調和」として見做されることでもある。現代ではその「尖り」は個性的であると認識している。この時点で我々が生きる時代との大きな乖離があることが伺える。
さて、この月光反転法とこの中庸がどのように関わってくるのかという話だが、先ほど挙げたオポジションを組み込むのなら、「過剰な月への執着から逃れるための反転法」であると言える。
確かにこれなら納得である。同時に、これをきっかけとして執着を解き他惑星へと目を向けさせることも容易であろう。少々、必要とされる前提条件が多すぎる気もするが。
結局のところ。
月欠損論や発展形の月光反転法を利用することで、月に対する執着や、チャート内のバランスを整えたり、「中庸」を見出したりできるかもしれないという利点は確認できた。
しかし、結局のところ。月の反対に自身の本質や幸運など眠ってはいない。というより、そもそも月だけにそれを見出すことは出来ない。それは伝統的・現代的のどちらを採用していても言える事だろう。
有りもしない、見えもしない惑星を作り出し、自らの振る舞いとすることこそ「虚構・嘘」だと言い放ってしまってもなんら問題はないだろう。
真に求められるのは均衡であり、その先にある中庸なのだと私は考える。
月光反転法や月欠損が完全悪なのかと言われたら、断じてそうではないと言える。だが、月欠損論も含めて、月という一つの惑星にこれほどまでの比重を乗せ、人生の彼是を見出そうとするのは間違いなく視野狭窄の様であることは間違いないだろう。
我々は月だけを観測しているのではなく、惑星や星座を通して「時間」を観測しているのだと声を大にして言いたい。異論は認めます。(急に揺らぐな)
「ホロスコープ」という名称がどういった成り立ちで出来上がったものなのかを、確認しなおした方が良いのだろう。現に私はもう一度学習しなおすことにした。というより、それに付随した暦や時間という概念についての知見をより掘り下げていきたい。
ここからは自語り
さて、ここからは自語りです。
好き勝手語るので飛ばしてもらって構いません。
とまあ、こんな感じで「月欠損論」とそれの発展形である「月光反転法」について語りました。
今更語るのもどうかとも思いましたが、約三年間ほど温め続けてもはや腐らせていたのでどっかで吐き出そうと思い、noteの記事としてアウトプットさせていただきました。
実のところ、月欠損論の某先生のこと自体は、そんな嫌いではありません。むしろ、先駆者として敬意を表しています。
彼が自身の生い立ちや、自らが視てきた人々や星々のもたらした知恵の積み重ねこそが「月欠損論」であり、時として人の傷を抉る様な表現であるのだろうと感じます。それを否定していないし、否定する気はさらさらない。
単純にこれは「私自身が『月欠損』という考え方が気に食わなかった」という感想でしかないのですから。なので、それを参考にしたり適用したりする人々を見つけても正直何とも思いません。(しかし、占星術そのものに対して無理解のまま欠損論を扱っているのは、なんか違う。)
某先生は月に対して良い思いはしてこなかったのでしょう。しかし、それは時として同じような境遇の人物を集める起因となり得る。客観の位置にあたる私から見ると少々視野狭窄だなという感想を抱いた。
自らの主観が大きく入り込み、その主観が自我となり、その自我が肥え太ってしまった。データや情報というのは、出来るだけその主観を省き、客観性を確保しなければ、正当性を示すことが難しくなる。この月欠損論は、そういった客観性が不足していたのかなと、今現在の私は感じる。
それは私自身にも言えることだ。こうやって記事やtwitter(現X)にて投稿している内容が、真に客観的であるかどうかなんてわからない。むしろ、感情や主観に汚染された、歪んだ視点であることも危惧しなくてはならない。
逆に発見した投稿や発言を自らの都合の良いように、又は被害妄想が暴走するままに受け取ってはいないだろうか。いわゆるバイアスと呼ばれる「歪み」は気づかぬうちに己を蝕む。
本当に目を向けるべきものは?
答えが得られるかも分からないが、一先ずこれを私自身に問い続ける一つの題として控えておくことにする。
彼が説いた月欠損。その月は己自身であり、主観であり、自我であり、そして歪みでもあった。
私たちは時として、何者かによってもたらされた認知の歪み、バイアスと呼ばれるモノに知らず知らず苦しめられているのかもしれない。
さらに言うなら、その「歪みをもたらした何者か」はいったい誰なのか。
先生や師匠、友人や恋人。様々な人々から個人は影響を受けるのだから、そこから歪みが生まれてしまうのかもしれない。だが、もう一人忘れてはいけない人物がいる。
それは「私」
つまり、自分自身が生み出す歪みもまたある。
気を付けていきたいものですね。
フィルターがあった方が幸せなのか、不幸なのか。
そんなことは知ったこっちゃないが、せめて自分自身をわかってやれるように努めたいものですな。
締め
という訳で終わりです。
ありがとうございました。
なんかウニョウニョっとした終わりになってしまいましたが、こんなもんです。全盛期からどんどん衰えていっているのが分かるぜ☆(ちなみに全盛期は中・高校生時代。)
結局のところ、「月」という一つの惑星ばっかり見るんじゃなくて「チャートを視ろ」って話なんすよ。答えはちゃんとそこで示されているはずなんだから。
有難いことに、西洋占星術初学者の方々とお話をさせていただくことが多くなってきましたが、その際にも、上記に書いた「とにもかくにも、チャート視ろ」はかなり口を酸っぱくして言っています。
何かに限定して自らの視野を狭くすることは、クライアント(又はカレント)と一緒に迷宮に入る事みたいなものですから。現に私も何度かやらかします。まだまだ勉強不足ですわ。時として己を憎ましく思う瞬間だってありますね。
そうやって振り返ると、私が私の事が世界で一番嫌いで、憎んでいるのかもしれません。それもまた、己の能力を歪んで認知させている事にもあたるのかも。
実際、私の事を評価してくれている人たちに恵まれていながらも、どこか自分を追い詰めようとする意識があるのです。きっとこれは、月がどうとか関係ない、私自身が歪ませている認知なのでしょうね。
その呪いがいつ解けるのか、はたまたどうやったら解放されるのか。
ま、人生これからという事で。…あと300年は欲しいです。
んじゃまたお会いする日まで。
善き一日をお過ごしください。
by常磐 楓
P.S.
次は、スペースの宣伝というかスペースで話すであろうテーマについての記事を作成しようと思います。スペース前に投稿する奴は「テーマの触り」、終わった後は、その概要と私自身の見解や感想について語っていこうかなと思います。
少々炎上しそうな話題になってしまいますが、楽しみにしていただけたら幸いです。