激闘の末に思う事。
それはある朝の出来事。
壁を背にソファーに座っていた私は、トイレに行こうと立ち上がった。
すると何気に聞こえる「カサカサカサカサ」という音。
大きいわけでもないけれど、私の耳が警戒音として反応したのは確かだ。
テレビや子供の話し声もある中で、だだ一つ明確な音。
「カサカサカサカサ」という音の出る方へ振り向き、目で音の元を追う。
そして焦点が合う。
そう、それは大きな蜘蛛。
気付いた瞬間に口から出る咆哮。
「ギャーーーーーーーー!!!」
私は蜘蛛が嫌いだ。
昆虫は大概手で取れるくらい平気で、なんならちょっとカッコイイかもとすら思えるタイプなのだが、蜘蛛だけはどうしても無理なのだ。
きっと前世があるのなら、私は蜘蛛に食べられた昆虫だと思うほど、怖くて堪らない。
動くあの様子を思い浮かべるだけで、ゾッとする。
が、叫んだ時に部屋にいたのは私と娘だけ。
そもそも私が大声で叫ぶ事がないので驚く娘。
娘は基本虫が苦手である。
動けない私の元にやってきて、娘は私のみる先を見つめるが、何が起こっているのか分からない様子。
あぁ、これを言ってパニックになった娘のせいで、あの蜘蛛が逃げ惑い、目の前からいなくなるような恐ろしい事にはなりたくない。
我が家の賃貸一軒家は、変な作りなので、玄関のすぐ右側にトイレがあり、その奥はキッチンへと続く引き戸があり、キッチンには2階へ続く階段もある。
玄関入ってすぐ目の前は全てリビングルーム、玄関の左には壁の前にソファーという状態。
そして蜘蛛は玄関とトイレの間の壁の床近くで、止まっている。
この状況で、トイレの中に入られるのはかなりマズイ。
トイレは狭い部屋なので、蜘蛛が逃げ込み尿意や便意などを催そうなら、かなりの至近距離で出会う事になる。
こうなると、トイレには行けなくなる。
ダメだ!トイレの中に入れてはダメだ!
かと言って、こちらに来られても余計にパニックになってしまう。
どうしよう玄関の外に逃げて欲しい。
でも玄関の扉は閉まっている。
玄関を開けなければ!でもどうだろう、我が家の玄関は引き戸で、ソファーに乗って引けばソファーに向かって扉がスライドしていくので、出来なくはないのだが、開く時にかなり大きな音が出る。
作りも古く、振動に驚いた蜘蛛が逃げたら…。
トイレに逃げられると先に話した通りマズイ。
しかしながら、向こうも生きるか死ぬかで動いているので、思わぬ行動に出るかもしれない。
私が危惧しているのは、引き戸の方に凄いスピードで走り、引く扉と共に蜘蛛の走るスピードで私目掛けて向かって来られる可能性も捨てきれないという事だ。
これは絶望的な恐怖だ。
想像するだけで、絶叫したくなるが、冷静にならねば!と思った矢先、娘が蜘蛛に気付き、息子が私の叫び声に反応し、2階から駆け降りてくる。
頼む誰も蜘蛛を刺激しないで!
娘は私の側にいるからか、取り乱す事もなく、
「あっ、アレはヤバイ奴…。」
と言うに留まり、息子は
「どうした?大丈夫?」
と心配して降りて来てくれた模様。
取り敢えず冷静に息子に聞いてみる。
「あの蜘蛛を外に出せる?」
蜘蛛から目を逸らせない私達は、まるで戦いに挑むヒーローみたいに、お互いを見ずに話す。
私と同じく虫には得意な息子は言う。
「いや、それは無理!」
一縷の望みが消えた。
「絶対蜘蛛を刺激しないで!!玄関から逃すから!私はトイレの扉を完全に閉めて、玄関の扉を開けるから、息子よ、台所から長い箒を持ってきて!」一気に喋ったあと、ゆっくりと冷静に
「いい、皆んなソッと動いてね、蜘蛛が逃げるから。」
もう、なんかすごいミッションをこなすかのような真剣さ。
おのおのが自分のやるべきことに集中する。
トイレの扉をそっと閉め、玄関の扉をなるだけ素早く開ける。蜘蛛が気付かないように。
そして、台所から戻ってきた息子に、箒を貰おうとすると、
「俺がやる!!」と息巻いている。
その勢いそのままに向かおうとするので、慌てて止める私。
「ちょっと待って!!!!
もうここ一番大事だから!!
確実に玄関に逃げて貰わないといけないから!!!
トイレ側から追い込まないと、トイレ側に逃げて来たらギャーってなるから!!!」
焦る私。
「大丈夫、俺がやるから!!」
息まく息子
「ちょっと待って、私がやった方が確実だから!!」
焦りまくる私。
「大丈夫だって!!」
俄然やる気の息子。
と箒を取り合いながら、息子と揉めていると娘が後ろから
つぶやくような声で
「あっ…蜘蛛が逃げる。」
揉めてるうちに箒の先が、蜘蛛の近くに一瞬横切ったかと思ったら、蜘蛛がササット動く。
「ヒッ!!」
と声が出てしまう私。
運良く玄関側に動いた蜘蛛に、息子が反応して、さらに外に出るよう箒で追い立てる。
蜘蛛が壁つたいに外に出たのを確認して、急いで玄関を閉める。
「やったー、外に出たーー!!!」
私と息子は手を取り合う。
やり遂げた気持ちでいっぱいになり、戦いを制したような気持ちで喜び合う。
そんな私たちを横目に娘がソファーに座りながらつぶやく。
「次、玄関開けた時に、あの蜘蛛が戻ってこないよね?」
想像しただけでゾッとする話だ。
どうしよう…。
私がその後玄関を開けるのに、相当の時間がかかったのは言うまでもない。
意を決して出た時には、蜘蛛はどこにも居なかった。
どこにもいないと言う事実は、恐怖を感じる。
私はこの戦いに勝利したのだろうか…。
そんな事を思いながら、しばらく玄関付近を警戒しながら、自宅に入る日々が続いた。
試合に勝って、勝負に負けたのだ…。