ニーチェとわたし
なんだか最近、ニーチェが流行っている。
ニーチェの言葉とか諸々、本屋でよく見かけるけど、
『ソクラテスの言葉』とか『タレスで学ぼう仕事術』『アナクシネメスで成功脳に!』みたいなのは見たことがない。(あるのかもしれないけど)
「強烈さ」「分かりやすさ」「ラスボス感」が人気の秘訣だろうか。
大学時代にはニーチェってあだ名がついたくらいにニーチェかぶれな私だけど、
好きなアーティストが有名になったような(元々有名だよ)、嬉しいような寂しいような複雑な気持ちです。
そんな私だけど、むしろ当初は、ニーチェ先輩(?)のこと強烈すぎて少し苦手だったのだ。
「あー、好きな人多そうだよねこういうの…若い子に」
ってな具合で。当時自分も中学生で若かったのに…。
なんていうか私は、ひねくれが一周してたような感じだったんです。
プラトンが好きだった。
イデア界とかロマンがありすぎるし、私はふつうにモラリストだし。
カントは「道徳的」だろうけど、
定言命法とか道徳律とかあんまりピンとこなかったんです。
ただ、いつかカント好きの哲学友達K君が、ニーチェとカントは背反してるようで実は同じ方向性だと言ってて、(その理由も全部述べてくれてそれに感銘を受けたんだけど、忘れ…いや、長いので省略します)考えが変わった。
とにかく、わたしは既存の道徳を欺瞞、ニセモノだと言い切るニーチェが少し怖かった。
そして同時に、とてつもない魅力を感じた。
「怖い」という直感はある意味で正しく、
土浦で、ニーチェ哲学(正しくは永井均のニーチェ入門書)に触れて、ニーチェ哲学や独我論を盾に自己の正当性を主張する連続殺人犯なんかもいた。
そして、それは理論としてはあながち間違っていなかったのだ。
それが怖かった。
かのナチスドイツも、ニーチェ哲学を盾にしていた。
そうしたことは対象が誰であっても起きてるから、まあなんともいえないけれど。
しかし、「道徳」の本質とは、そういう危うさそのものなのだと思う。
四角四面の規範を押し付けるのが道徳ではなく、
問いを持つこと、疑問そのものが道徳なのだと。
それこそが、ニーチェのいう『善悪の彼岸』なのだろう。
一度、道徳の向こう側に行かないと、道徳のことはきっとわからない。
インモラル(不道徳)ではなく、プレモラル(道徳以前)になって考える必要がある。
牧師の家に生まれたという環境のせいなのか、ニーチェは自然にそれができていたのだ。
それでも、若きわたしは、既存の道徳を欺瞞と言いきる、
ニーチェ思想と戦う覚悟を決めた。(もちろん、楽しみながら。)
そうするうちにわたしはニーチェに惹かれていった。
そのストイックさに。
どこに着地するとも知れぬ論理に。
とてつもなく的確な指摘に。
あまりにも吸引力のある詩的な文才に。
危うい魅力と愛らしさに。
(突然「もうたくさんだ!!もうたくさんだ!!」とか興奮しはじめたりする)
圧倒的なラスボス感に。
(「愚かな畜群ども!」とか言う。ジョジョのDIOかと思いました)
わたしはニーチェに宇宙を感じた。
きっと彼は、誰よりも真摯に道徳と向き合っていたのだ。
わたしは当初、大学の卒業論文はプラトンで書こうと思っていたけれど、結局、ニーチェで書いたのだった。
ある時、twitterの時代だからこそニーチェが流行るのだと、
お世話になった哲学マニアの編集者は言っていた。
ニーチェの箴言(いましめになる短い言葉。アフォリズム)が、
ちょうどtwitterの投稿できる文字数にぴったり収まるサイズなのだと。なるほど!
ニーチェは、鞭打たれる馬を見て発狂した。
(死因については様々な説がありますが)
ニーチェが発狂したという知らせを聞いた彼の友人は、
「え、逆に、ニーチェってまだ発狂してなかったのか!?」
とすごくびっくりしたそうです。
たしかに…。
こう言っちゃあれだけど、面白すぎるでしょう…。
発狂したニーチェは、親交の深かったヴァーグナーの妻にあてて、
こんな不可解な手紙を送ったという。
「私が人間であるというのは偏見です。
…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。
…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。
…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。
…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」
お、おう…いろんなのだったんだね!(小学生並み感想)
だったことがあるような気もしないではありませんw
自身の体の弱さのせいもあってか、「強さ」というものを追い求めたニーチェ。
著作のなかではアレクサンドロスやナポレオンに対する憧れが随所に見られた。
音楽家ヴァーグナーへの偏執的な感情も。
(彼への失望が、『人間的な、あまりに人間的な』という本になっているほど)
そして、アポロン的(論理、秩序、規範)であるよりは、ディオニュソス的(感性、美的)であることを是とした。
ニーチェは、ずっと、これらの人々(とか神)になりたかったのだろうか。
牧師の家に生まれ、だからこそキリスト教的道徳の欺瞞を強く憎んだニーチェ。
既存のキリスト教的(プラトン的)道徳と、ニーチェの新しい『君主道徳』。
それはヘーゲル的に言えば、テーゼとアンチテーゼ。アウフヘーベンですね。
わたしは、ニーチェ以後の世界に生きていることを幸せに思う。
(アウフヘーベンって使いすぎてアウフヘーベン女子っていわれたり、なんでもアウフヘーベンにつなげることなく哲学談義しましょうっていわれたことがありますw気をつける)
『ルサンチマン』『奴隷道徳』。
うさぎはライオンになれないように、ライオンもうさぎにはなれない。
弱さを正しさと勘違いしていないか。
コロセウムを思い出して欲しい。
処刑は、他人の痛みは、古来人間の娯楽だったはずだ。
ニーチェはそう問いかける。
それは私が昔から思っていたことでもあり、
それを哲学理論として言語化して、
それでいて、私の道徳の価値観を広げてくれたニーチェ。
ビジネス書とか自己啓発とか、世の中は基本的にニーチェを「利用する」「役立たせる」というほうに向かっている。
たしかに、ニーチェが発狂するほどまでに深淵に潜って取ってきた言葉は力強く、勇気をくれる。
しかし、他方で、無意味で役に立たない愛らしさこそ、ニーチェの本質でもあり、大きな魅力のひとつではないかと思うのです。
『永劫回帰』(無意味なものが永遠に!)です。
なんだかんだで、わたしはニーチェの魅力に取り込まれました。
ああ、これはあれだ。
少女漫画で、気の合わなかった二人が惹かれあうパターンだ!
「やなやつ!」「あれ、あいつ、いいとこもあるんだ…(トゥンク)」
みたいな。
いやニーチェは私に惹かれてないけど…。なんの話だ。
哲学のことを考えてるときが、やっぱり一番幸せです。
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