私が病気になるまでに
なかなか、世の中落ち着かないし、密かに鬱は悪化してます。
どうしてこうなったのかな?
まず、鬱のきっかけはありました。2007年に出会った「アレは宇宙人と思って」と他の社員の方々に言われた中途採用の社員さん。私は契約社員でグループで常駐してた感じ。その時、「辞める」と相談した自社の常駐管理者の社員さんが、自社から営業さんに連絡して「あんな人に病気にされて、他にうつっても風邪と一緒でまたぶり返す。ここで、良くなりなさい」と言ってくれて7年働きました。
その母体となる所属会社自体がガタガタした時、やはり辞めようと思ったのですが、派遣先の課長さんに止められ会社が落ち着くまで(その時、猫が癌になり、看護の為勤務時間を前倒ししてくださったり、宇宙人が気にならないくらいの半年と震災を経て)、円満退社かな?最終日超残業だったけど😂
猫が死んだ後、祖母が亡くなり、父がほぼ寝たきりになりました。14日も休まず次の仕事が決まって、私は高給(私が頼んだわけじゃない)の為にそこで4年ほど頑張った。何故、頑張らなければならなかったか。本当は、半年で次の派遣に行くはずだったのに。
それは前の会社を辞めると決めた、ある日。仕事から帰ると母が「先日の大風で壊れた屋根を直すのに保証人になって」と言われて階下に行くと営業さんが「お父様のお年では、契約できませんのでお嬢さんのお名前で」。。その時、高給(私が頼んだわけじゃない)であったことが仇となり、契約成立。
父が、「支払いは俺がするからさ」そりゃそうだ。私が調べた地元の会社じゃなくて、遠くに本社がある「これからこっちに進出したい」に絆され見積比較もせず決めちゃった。300万という大金が、私の借金となった瞬間でした。
だから、私は体と心を休める暇なく、すぐに次の仕事に飛びついたのでした。思わぬ高評価と時給アップ(私が…以下同文)でしたが、私には敷居が高い勉強しながらの仕事に、どんどん増える書類。一緒に入った別の派遣会社の方は、別部署で働いていて最終日にしか話せなかったのを後悔したので、次の方には色々お話し出来るよう暫くお昼をご一緒した。
さあ、いました。この方は隠れ宇宙人でした。
仕事はとても出来る方でしたが、誰かを苛めていないと仕事ができない(生きていけない?)宇宙人でした。私は、辞めるタイミングを失って、本格的な彼女の「無視」を広めよう運動(派遣先の部長その他はとても私を評価し、励ましてくださいましたが)。人間、明らかに自分だけを無視する人(増えていく)と、それを気にしていない振りをしながら敷居の高い仕事に没頭していくのは、無理があります。4年ほど。頑張りました。母がいつの間にか屋根の支払いを10年払いにしていたからです。
そこを辞めようとしていた時、父はほぼ寝たきりでした。栄養が取れていないから、妄想や痴呆の症状もありました。その父に私は「ちゃんと責任とって後4年生きて借金払え!」と言いました。父は、分かったと言って、胃瘻の手術を受けました。馬鹿?咀嚼運動のリハビリして、ご飯ちゃんと食べなさいよ、この怠け者!
手術から戻った父は、1日400カロリーの胃ろうでガリガリ、トイレに自信を失ってカテーテルまでつけちゃってまあ、こんなの自殺と一緒じゃない?って、その時期には私も「上腸間膜動脈症候」に成る程、ストレスで食事が出来てませんでしたけど。
さて、父の驚きの手術から、とうとう彼は寝たきりになりました。胃瘻の量が足りないと言ったら、「アレは食事だから保険外です」とのことで、しかし私は早急に仕事を探し、そこで心が挫けて「簡単な仕事にしよう」と決まった仕事の2日目に、父が目を落としました。仕事は何故か一緒に入った派遣の方と別に、ノルマのある即実行。父の火葬が決まるまで休み無し。火葬の時だけ休み、冬だったのでお墓とお寺は雪の為、100日の納骨と49日と葬儀を一緒に3月にすることになりました。
借金はあるけど、ノルマに心が折れそうになりつつ1月納品に間に合わせ、やっと2月から一緒に入って既に仕事を任されている派遣の方に仕事を教わると言う「え〜!」な状態。そしてそこもまたコツコツとノルマがあり、相棒は私の覚えが悪いとイラついてました。派遣が教える事じゃないものね。わかるよ。でも、イライラされても私はまだ、茫然自失状態でした。
納骨が終わり、体調が悪く休んでいた社員さんと組んで仕事を始めたら、教わってないことが山とありました。知らんものはわからんわな。社員の方は、教わってなかったのにごめんね、なのにこっちの間違えみつけてくれてありがとう。と優しい言葉に泣きそうでした。
何とか何も教わらないまま新しいソフトでテキスト入力して、チェックの人に抜け見つけてもらって(その人はお互い様ですよ。恐縮ですと優しかった)ここも、この新しいソフト中心で、間違ったExcelの使い方を変えていければ、もつかな?と言う時に、今度は会社の引っ越しです。
父が亡くなった時、鬱がひどくなった自覚があったので、先生に相談したら「そんなところまで通う体力無いわよ、辞めなさい」とアドバイスも受け、契約満了、更新断りイライラさんともお別れです。
久々に職安に行ったら、「酷い目に会いましたね」と、ゆっくり近くの職場を探してくれました。行ってみるものです。
だがしかし。ここで、2019年2月。
そう。新型コロナ禍がヒタヒタと近づいていたのです。のんびり職探してたら、「コロナ禍」と呼ばれる状態に。率先して職を紹介してくれるのは5月以降に職を失った人たちだったのです。
それから、自粛、骨折、リハビリ失敗。
そして、最後の愛猫の病気発覚。半年の介護の末昨年11月にお別れしました。わたしの判断は合っていたのか?病院行かなかったら、もう少しゆっくり逝ってくれたのか?後悔は尽きません。所謂、ペットロスですね。
私は上腸間膜動脈症候の前に、両膝に4歳から変形があります。最初の仕事は手書き書類で、腱鞘炎。次の営業で胸郭出口症候群になり、7年働いた会社ではへバーデン結節になり、進行中。社会復帰するにも勉強したプログラミングで仕事はしたく無いし、指の震えでもう、キーボードは無理。
SE(なんちゃって)4年の実績は同じ年月で無と同じ。その時やった坐骨神経痛と、足の小指のひびで、杖が離せないまま、自宅で今度は反対の足の小指の下を横にまっすぐポッキリ骨折。家族は買い物にも私を出しません。出る時は家族と一緒。1人の時は、病院か役所。
私が病気になるまでに、私は壊れていたのかもしれません。この状況下、身の回りの小さなゴミを捨てたり、洗濯したり、回線関係の契約見直したら酷い目にあったりしながら、あの無責任親父の馬鹿野郎!と3歳の時から母のカウンセラーだった私は心で叫びを上げる以外、何もできないのでした。
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