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『マーベルズ』から見るオタクとファンフィクションの地位

このnoteは

『マーベルズ』を字幕で一度観ただけの日本のオタクが、カマラのオタクとしての側面について思ったことを述べるnote。
⚠️ネタバレには配慮しない

キャプテン・マーベルオタク部屋を本人に見られたカマラ

 ファンフィクションが好きなタイプのカマラ、共感度がめっちゃ高いんだけど、あの部屋を本人に見られた動揺がなくて喜びだけを全力で表現していたの、オタクとして強い。
 もし、私の今のロキまみれの部屋をトム・ヒドルストンに見られたとしたら卒倒する。カマラみたいなファンフィクションのグッズや本が飾られている訳ではなく、公式グッズしかないけど、それでも「あああああああ!」ってなる。

 本人がヒーローだから、私みたいなファンフィクションを嗜むオタクという立場より視座が高いところでオタクをしているが故のものなのかもしれない。
 東大に行って楽しいキャンパスライフを過ごす妄想小説を東大生や東大の教員に見られたくらいの感覚なのかもしれん。いや、それでも私ならかなり恥ずかしいが。

 と、考えると日本と欧米圏のファンフィクショに対する価値観の違いなのかもしれない。日本のオタク、特に女オタクは「公式から隠れなきゃ」「ムラから出ないようにしなきゃ」の雰囲気があるけど、欧米圏のオタクを私が見る限りだと自作グッズ作って俳優に見せに行ったりで割とアクティブな雰囲気がある気がする。
 ベイマックスのアニメシリーズでも、Big Hero6オタクの子が夢小説がバズって本人たちに見られて(ヒロ除く)本人たちには好意的に受け取られている描写があったりしたし、ディズニーのオタクのアニメイターもファンアートを自分のデスクに貼ってたりするって言うし、日本に比べるとファンフィクションの地位が高いのかもしれない。

 あとは、シンプルなカマラ自身の自己肯定感の高さ、自信の表れなのかもしれない。
きっと、『ミズ・マーベル』初期の「茶色い肌の女の子が世界を救うわけない」と言っていた頃だったら、こうはならずに私と同じような反応だったかもしれない。『ミズ・マーベル』を通して、成功体験を通したからああいう反応になったかもしれない。

アラドナでのキャロルを見るカマラとモニカ

 アラドナでの全てが最高なことは最高なので、置いとくとして。
デュエットする2人をみるカマラとモニカの会話が最高。この会話から察するにやっぱりファンフィクションの地位が現実の日本社会よりは高そう。
現実の日本のオタク、特に女オタクが楽しみがちなファンフィクションって蔑ろにされがちだし、ましてやそれが実在の人物だとしたら、外に出してはいけないもの扱いなので……
 MCU世界は、(MCU世界内で)実在する人物のファンフィクションがある程度好意的にみられている世界で羨ましい。

モニカとキャロルの仲直り

 アラドナでの戦いを終えて、3人で仲直りするシーン。
モニカがキャロルに対して「どんなあなたでも受け入れる。だって家族だから」と仲直りをしている間、私は「そ、そんなん、強火オタクのカマラはどうしたらええねん……」「そもそもカマラは推しの失態を受け入れられるのか……」「私だったら受け入れるのに時間かかるぞ……」「と、いうか仮にそれを受け入れたとしてその理由付けによっては不健全なパラソーシャル関係に陥ってしまわないか……」「不利だ……圧倒的にカマラが不利だ……」「悲しむカマラを見たくないよ……」となっていたら、なんかサラッとカマラも2人の輪に入っていてビックリした。な、何があったんだ……

総評

 全体を通して見ると、家族愛としてのキャロルとモニカの関係性にフォーカスを当てているのか、脱オタク・目指せヒーロー的なカマラの成長にフォーカスを当てているのか分からなかったなーという印象。3人それぞれバランスよく描こうとしてこうなったのか…?これ、もう少し尺があれば分かりやすさが出たのかもしれない。
 映画としては終始コメディとシリアスのバランスが良くて、楽しい映画だったのでだいぶ好き。


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