「カップリングの意図はありません」ってBioに書くことへのモヤモヤ
初めに
上記記事を読んだ上でこの記事を読んでいただくと、私がどんな思考回路を辿っているか分かりやすいと思います。
私が把握している現状
Twitterで同じジャンルのオタクをフォローしようとすると、Bioやプロフカード等に、「カップリングの意図はありません」とか「腐思考はありません」等と書いてあったりする。人によっては、それらの意図があるアカウントをブロックする旨を記載してあったりする。ジャンルがナマモノや半ナマだとさらに増えるし、ジャンル問わず、「このコンビ好きだけど、あくまでコンビだよー」的なアカウントに多い。
二次創作をしているアカウントなら、自分の創作に意図していないそれらのコメントや感想をもらうのをあらかじめ防ぐためだったり、「棲み分け」のためだったりするのだろう。
私も、それらの文章を記載しているアカウントを持っている。私は、関係性オタクの考察厨なので、関係性に関連したツイートをすることも多いが、それらをカップリングの意図を持ってツイートをしていると受け取られてしまうと、上記にあげたようなアカウントにブロックされてしまい、ツイートが見れなくなってしまう可能性があるために記載している。
モヤモヤ
で、やっぱりモヤモヤする。公式で本人たちが恋愛関係になったら、そういう記載をしている人たちはどうなるんだ?ってか、可能性は限りなく低いけれど、仮に付き合ってる本人がリアルにいて、それらの記載が目に入って傷つきはしないか?
いや、わかる。その可能性よりも、ノンケな本人がカップリングの意図を持った二次創作が目に入って傷つく可能性の方が高いことは。
でも、それらの二次創作は、大抵、検索避けされ、ポイピクやpixivにワンクッション置かれた状態で投稿されるし、リアルで目にすることがあるとしたら即売会か専門のショップだ。見ようと思わないと目に入らない。嫌なら避けられる。
今回のテーマの記載は、創作物ではない、人(アカウント)のスタンスの話なので、見ようと思わなくても目に入る可能性があるし、何より、創作物ではない、思考の話だ。思考レベルで存在を拒否される。こちらの方が攻撃力が高い気がしてきたのである。
関係性オタク
以前の記事で、私は関係性オタクとしての楽しみ方をこう述べた。
これには、途中から公式が恋愛関係だと明らかになった場合に、その恋愛関係になったことを祝福することも含まれる。
上記は、あくまで私個人の楽しみ方を述べただけに過ぎない。
関係性オタクを名乗っている皆が皆、同じ意図で名乗っているかは分からないが、「腐女子」「shipper」とは違うということを明言したくて名乗っている人が多いように思う。
「関係性オタク」という言葉は曖昧で、私のように「恋愛関係な可能性もあるよね」なオタクもいれば「公式から明言されたら萎える」オタクもいる。多分どの関係性オタクも「『友情』とか『恋愛』とか一般的な言葉では表しきれないその2人だけの関係性であって欲しい」みたいな思考は少なからずあって、その程度や許容範囲が違うのだと思う。
いや、でも、「公式から明言されたら萎える」「公式ではブロマンスくらいでいて欲しい」って言ってしまうのは、言葉として、暴力性が強すぎやしないだろうかと、許容範囲が広いオタクの私は思ってしまう。「解釈の余地が欲しい」とか「解釈の余地がたくさんあるコンテンツっていいよね」に言い換えないか?
「公式から明言されたら萎える」「公式ではブロマンスくらいでいて欲しい」って言葉、ホモフォビアに聞こえて、胸が痛いよ。
本題と結論
そしたら、やっぱり、私自身にブーメランが刺さってくる。どんな背景があろうと、「カップリングの意図はありません」は、表面的に「同性間の恋愛描写はNO」と捉えかねないことには変わりない。「(商業オリジナルBL作品は好きだけど、その他のジャンルでは)カップリングの意図はありません」だとしても、「同性愛表現はBLの村を出るな」と言っているような気がしてくる。
「どんなジャンルでも、公式で同性愛表現があることは拒否しないが、今、私がいるジャンルではその気配はない(と私は解釈している)から、今はそれらの意図をあまり考えずにアカウントを運用しているよ」と表すことがベストなのではないだろうか。いや、長ったらしいな!!適切な言葉あれよ!!
追記(2023/08/19)
私が本文中で伝え忘れていたんですが「私がモヤモヤしているので、私は使いたくないな」から始まっています。「みんなも書くのやめな!!」と言っているわけではありません。
そして、想定しているジャンルとしては、ナマモノや現在でも新規でエピソードが作られる可能性がある作品です。
それらは「今まで異性愛者(もしくはアセクシャルやアロマンティック)だと思われていた人が、実は同性も恋愛対象に入る人だった」となる可能性が0.00000001%でもあるジャンルです。
私は、ジャンルやキャラクターによって確度の差はあれど、大抵のキャラクターは、その可能性が0ではないと思っています。私が「カップリングの意図はありません」と記載していたジャンルでは、現時点でわざわざ同性間の恋愛描写がある二次創作を作ったり、探したりはしないけれども、今後、公式的にその展開があるのなら、それは大変好ましいことだと思っています。
そう内心では思っているのに「カップリングの意図はありません」と私が記載するのは、自分に嘘をついているようでモヤモヤしますし、「公式から明言されたら萎える」「公式ではブロマンスくらいでいて欲しい」と言う人たちと同じ思考で記載していると思われる可能性があるために、それを避けたいわけです。
住み分けをしたくないのではなく、むしろ更なる住み分け、細分化ができるのではないか?という話です。
今は公式で同性愛描写がないから「カップリングの意図はありません」と書いているだけのアカウントが、公式で同性愛表現がされたときに「公式で付き合ってるなら別だ!!もっとイチャイチャしろ!!」などと嬉々として投稿をし始めた様子を見て「『カップリングの意図はない』って言ってたじゃないか💢」となってフォロワーが離れていく可能性があるよね。それを避けることは可能じゃないのかな?という話です。
「カップリングの意図はありません」の記載文自体にホモフォビアがあると言いたいのではなく、ホモフォビアが理由で同性愛表現を避け、周囲に同性愛表現を好む人と思われたくないことなどが理由で、「カップリングの意図はありません」と記載をしている人と、そうではない人の区別が付かないのモヤモヤするよね。という主張です。
「BLが地雷」は、ホモフォビアなのか?
「BLが地雷なこと自体がホモフォビアと思われますか?」とのことですが、私個人としてはBLが苦手な理由によると思っています。
公式からかけ離れた二次創作が苦手で、その中の一例としてBLがある場合 や、
BLに多く描かれがちな性的なシーンが苦手である場合
などは、同性愛自体を避けているわけではないので、ホモフォビアではないと思います。
ですが、それらは「BLが地雷」という言葉を使わずとも苦手を表現できるはずなので、わざわざ「BLが地雷」と言ってしまうのは、ホモフォビアと捉えることは可能なのではないかなと思います。
ホモフォビアという言葉を、クィアでもある私は広く捉えている節があり「同性婚を認めるな!」という主張を見たときと「その作品BL描写あるんだ、じゃあ見るのやめるわ」等の言葉を見たときに私は、同じ種類の胸の痛みを覚えるのです。
それらの言葉を発する人に、私のセクシャリティを伝えることはおそらくありませんし、伝えなきゃいけないシチュエーションを想像しただけでも涙が出てきます。
フィクション作品での同性愛表現が苦手な人全員が、現実社会の同性愛者を嫌っている訳ではないとは思いますが、フィクションでの同性愛表現に抵抗がない人と比べると、その可能性が高く、現実のホモフォビアに繋がりうると思うのです。