私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ


きっかけ


noteを放置していて久しぶりに開いたら、rinp12さんからコメントと感想と意見(?)記事を書いて頂いた。こんなに丁寧な反応が来るのは初めてなのでシンプルに嬉しい。

私の一連の元記事は、私がオタクをしてきた経験によるモヤモヤを言語化しただけのもので、rinp12さんはおそらく私より遥かにジェンダー論やフェミニズムや批評についての知識を有しており、それらを活かした形で記事を書いていただいてとてもありがたく思う。
傍論に関しては、面白く読ませていただいた。

私の一連の元記事

振り返れば、私は「好きなコンテンツがクィアベイティングかもしれない」みたいな話しかしておらず、そもそもの「クィアベイティングをどう思うか」についての話を明確にはしてこなかった。世の中ではクィアベイティングという概念自体に賛否両論があるのにも関わらず。

上記に挙げた記事を読んでいただいたら分かるが私は「クィアベイティングという概念によって何かしらが批判されることがあること自体は肯定しているが(それによって社会やコンテンツが健全になると思っている)、そのコンテンツが本当にクィアベイティングにあたるかどうかは慎重に判断しないといけないよね」という立場に立っている。

一方でrinp12さんは、「クィアベイティングなるものを特別視して非難するのは理論的に正しくない」という立場に立っている。

私はENTPなので、つい楽しく色々考えてしまった。今回の記事はrinp12さんの記事を読んでの私の思考を整理したものである。

関係性消費における異性愛と同性愛の違い

rinp12さんは、関係性を消費するということに対して「同じ反倫理性を持っている」として、

異性愛関係を商品化して売る生産者と同性愛関係を商品化して売る生産者、そしてそれに対応する消費者。彼らはある意味でどちらも同質の反倫理性を有するのであって、同性愛関係の消費だけを非難することはできないのではないかと思っています。

クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。/rinp12

と述べている。

両者に差があるとすれば、同性愛というものの被差別の歴史の存在というものですが、これも、同性愛関係消費を特別視する理由にはならないのではないでしょうか。関係性消費の文脈においては、同性愛というのものが(身勝手だが)肯定的に捉えられ、差別意識から切り離されている以上、差別の存在と消費の態様の反倫理性は結びつかないような気がします(同性愛者を差別してその加虐それ自体の快感をエンタメ化しているような場合は別ですが、「BL」とか「百合」とか言う場合、そのような形ではなく、むしろ(悪としての)差別を乗り越えていく過程がエンタメ化・商品化されている場合が多いでしょう)。

クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。/rinp12
※太字は筆者による

もちろん関係性消費という面で見れば異性愛も同性愛も同じかもしれないが、私としては、同性愛を異性愛と同じように見ることはできないと考えている。オタクによる(二次創作的な)百合/BL的消費は、多くの場合、同性愛者に対しての肯定でもなんでもない。

明文化されていない(されてる場合も含め)実質的な恋愛(異性愛)禁止が課されている環境にいる推しに対し、「推しのエッチなところ/恋愛しているところは見たい(=想像したい)が、それが(推しに対しての異性の)どこの馬の骨とも分からん奴だと嫌なので、俺も好きな(同性)メンバーなら許せる」的な思考から発生していると考えている。

その思考の根底には、推しへの「(オタク/運営などの)許可なしで恋愛するな」という思考・推しのパートナーへの「推しを誑かしたビッチめ」的な欠落した人権意識(主に女性蔑視)があり、それでも同性メンバー間であれば許せてしまうのはヘテロノーマティブィティによって同性愛を本物の恋愛だと認識してないという差別意識があることを否定できない。

(2024/02/09 24時頃追記:もちろん、2024年の日本社会においてはそういった思考を明確に脳内で言語化して百合/BL的消費をしているオタクはマジョリティではないと思うが、私が百合/BL的消費をしている二次創作を見始めた頃(10数年前)にはそういった思考を滲ませた言動をしているオタクを少なからず見かけた。)

上記はオタクの二次創作的な同性愛的消費を念頭にして綴ったが、運営側がオタクにこれらの思考があることを認識した上で同性愛的コンテンツを提供する(もしくは提供を止めない/咎めない)場合、「(悪としての)差別を乗り越えていく過程がエンタメ化・商品化されている」とは言い難く、差別意識によるものと捉えることは可能である。
とはいえ、実際にどのような認識に基づいてコンテンツが提供されているのかを消費者が分かることは稀であるため、再三述べているが、現実的にはそういった批判は慎重になる必要がある。

もちろん、そこが出発点だったとしてもそれらの差別的な思考を改めた上で、アライとなって同性愛コンテンツを作り楽しむことは全然あり得る。私もその1人だ。

ただ、そのアライと差別的思考による消費とは別の存在として、現実のクィアな人間(推しではない一般人やインフルエンサー等)すらを「リアル百合/BL最高」的な思考でコンテンツとして見てしまう人をたくさん見てきた。ここ数年は、私自身の年齢も上がり良識的でないオタクを見かける頻度が下がったし、クィアに対する社会的な理解も10数年前と比べると広がったのでそういうオタクは減っているのかもしれない。とはいえ、今でも稀にそういうオタクは見かける。

だが、俯瞰してみれば、それは同性愛に限った話ではなく、異性愛者の恋愛に対して「リアル花男かよ」的に、恋愛コンテンツとなぞらえることは珍しいことではないので、気にしすぎる必要はないのかもしれない。母数の違いがあるので、それが当事者にとってマイクロアグレッション的に負担になる可能性も否定できないが。

クィアベイティングを使って批判する理由

同性愛コンテンツが作られ消費される背景に何があるのかが分かりにくい中で、表面的に見ればLGBTQ+フレンドリーなコンテンツで溢れる社会になっているのが現状である。

そもそもクィアベイティングを大枠で非難するのは、「営利目的」というものに対する忌避感というある種の清教徒的潔癖主義的思考が背景にあるのだと思いますが(感覚的には理解できます)、しかしそもそも、その他の殆どのメディア空間に於いて我々は、営利目的の商品化の大きな流れにあるのです。我々は感情のフックに引っかかり続けて生きていることを直視すれば、クィアベイティングなるものを特別視して非難するのは理論的に正しくないように思います。

クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。/rinp12

私は「営利目的」としてクィアなものが作られて消費されることに忌避感を抱いているというより、同性愛というものに対してフリーライドする形でコンテンツが作られ消費されている現状にモヤモヤしているので、クィアベイティングをよく思っていないのである。

異性愛者が異性愛のコンテンツを作る際は、基本的には当事者なのでフリーライドではない。

私は普段、お金を使うときにこのお金がどう使われるかを意識している。私のお金が虐殺に使われていたり、私の払ったお金がお金を受け取るべき人(労働者・生産者)に支払られていないと知ると大変なショックを受けて罪悪感に苛まれる。

まあ、実際、それが "ある種の清教徒的潔癖主義的思考"なのであろう。

(同性愛やコンテンツに限らず)何かがうまいこといったのなら、その恩恵はその何かに関わったすべての人に還元されて欲しいし、その何かのせいで関わった誰かが不利益を被ることはないであって欲しい。

表面的にLGBTQ+フレンドリーなコンテンツであっても、その背景に差別意識があればそれがコンテンツに現れることは稀ではないし、それを見た消費者の言動によってLGBTQ+当事者が割を喰う可能性も少なくない。それではフリーライドどころではない訳である。

恩恵の話で行くと、何も「同性愛者がいたから同性愛コンテンツが生まれたという意味では関係者なんだから、同性愛者に金を払え」とかそんなことが言いたいわけではなく、「BLはファンタジー」とか言って現実の同性愛者を透明化せずに同性愛者も含めてみんなが楽しめる(エンパワーメントされる)コンテンツであって欲しいということである。

そのエンパワーメントが当事者にとっての恩恵であると思っている。(もちろん、それらのコンテンツの影響で社会的に認識がアップデートされて当事者が生きやすくなるのも恩恵)
ハリウッドで言えば、白人ストレート男性ばかりが恩恵を受けていたのを変えようとしている今の動き(いわゆる"ポリコレ")こそがそれである。

文化の盗用が主な例だが、社会全体やコンテンツ制作者(TV局や映画会社等)が被差別者を差別・透明化してきた事実を無視して彼らをテーマにしたコンテンツを作り、成功を収めるのってシンプルに腹立ちませんか。まあ、これも"感情のフック"なのだろうけど。

被差別者を描く(非当事者の)全てのコンテンツ制作者は、ディズニーがFrozenからFrozen2に至ったような内省を込めるべきだろと思っています。(これはただの個人的な意見です)

結論

言いたいのは「同性愛を使って金儲けすんなや」ではなく「皆んな幸せな社会をつくろうや。だからフリーライドはやめてくれないか?」ということである。

rinp12さんがタイのコンテンツについて触れていたので、私も触れようと思うが、多くのBL・GLコンテンツが作れているタイですら日本と同様に同性婚は認められていない(2023年11月に同性カップルに男女の夫婦と同様に婚姻を認める法案を閣議で承認)。そんな中でも同性婚に対してメッセージを送る俳優がいたりする。
ハリウッドだど、クィアキャラクターを演じた俳優らがプライドマンスにメッセージを発することも少なくなく、そうでない俳優であってもファンと写真を撮るイベントでレインボーフラッグ等とともに映る様子はよく目に入るし、制作スタジオや配給会社がクィアキャラクターにフィーチャーするなどしてプライドマンスにメッセージやチャリティ活動を行うことも多い。

日本では、そもそもエンターテイメントに従事する人間が政治的なメッセージを発することを忌避する傾向にあることも影響しているだろうが、同性愛コンテンツを描いた作品に関わる人らが現実の同性愛者への何かしらの還元をしている様子はほとんど見られない。(『作りたい女と食べたい女』や『僕らの地球の歩き方』など漫画作品では行われていたりする。)

「そういうの、もっとなんとかなりませんかねぇ?!そういうことをしてくれたらもっと見やすくなるんですが」と思いながら今週も『おっさんずラブ』をみて、『HazbinHotel』のファンフィクションを眺め、pixivコミックでBL漫画を読み、『付き合ってあげてもいいかな』の更新を待つ。

(2024/02/09 16時頃追記:ここに挙げた作品は「クィア表象がされている」という共通点を持つだけの私が最近見ているコンテンツである。それぞれ、ターゲットも消費のされ方も作られ方もバラバラであって、どれが「還元」されているか等の評価は控えるが、今の日本社会においてある程度インパクトが大きいと私が認識している作品たちである。今思えば『勇気爆発バーンブレイバーン』とかも入れて良かった気がする。少し前なら『グッド・オーメンズ』『海賊になった貴族』『怪物』『消えた初恋』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』『ハイスクール・ミュージカル:ザ・ミュージカル』『ニモーナ』なども入れていたと思う。今日公開の『カラーパープル』も含まれるかもしれない。それくらいバラバラに、ただ私の見ているコンテンツを並べたかっただけで意味を持たせているわけではない。)

追記:rinp12さんの記事の紹介

2024/02/11 15時ごろ追記
rinp12さんは、私がこの記事の冒頭で紹介させていただいた記事の後にも、法学的見地からクィアベイティングについての記事を書いていらっしゃいます。
私とは比べ物にならないくらい緻密に論を展開しているので、ぜひご一読ください。というか、ただのオタク(私)のモヤモヤ言語化記事なんかすっ飛ばしてこちらを読んだ方がこれからの(オタク)人生においてタイパが良いです。

特に3本目の6章では、私の知識不足で言葉足らずだったところを丁寧に言語化、定型化してくださっているので、私の記事を読んでくださった方には目を通していただきたいです。

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猫黒 歴史
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